intermission II

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ハイキューと8年半についての感想

こんばんは。月曜にハイキューが完結して、丸4日ほどが経ち、

少し落ち着いて文章を書ける状態になってきたので、

影山くんのボディをペロペロする活動を休憩し、

少々メタい感想など書いてみようと思います。

 

※めちゃくちゃ長いです!!

 

 

スポーツ漫画の終わり

2号連続大増P&カラーの予告があり、

ハイキューがいよいよあと数週で終わるかもしれない、と言われ始めたとき

「ハイキューが終わったらスポーツ漫画がゼロになるから、まだ終わらないのでは?」という意見をそこここで目にしました。

私はハイキューが終わらないすべての可能性にすがりついていくスタイルで生きていたため、これにも「そうだそうだ!」と全力で乗っかり、

ジャンプで次のスポーツ漫画が始まり、芽吹き、すくすくと立派に育つまでハイキュー兄さんが見守ってくれるのではないかと、一縷の望みにかけることにしました。

 

ところが実際には、駆け込みでスポーツ漫画の新連載が始まるとか、

どこかから移籍してくるとかそういう話も特段なく、

ハイキュー完結をもって、ジャンプから静かにスポーツ漫画が消えていくことになりました。

 

ハイキューに100で依存している私でさえ、

ハイキューが完結してもジャンプの定期購読は続けようと思うくらい今のジャンプは面白くて読みたい漫画が載っており、スポーツ漫画の有無にこだわる議論はあまり意味がないような気もするのですが、

一方で、スポーツ漫画が「こなさなければいけないこと」「避けては通れないこと」、つまりどうしてもその性質上内包してしまう「お約束」の類が、今の時代といまいち相性がよくないために、このような事態になっているのではないかという妄想も、ここにきてまた膨らむこととなりました。

 

主人公が、失敗や挫折を経験し、苦しみながらも

仲間に支えられ努力を重ねて次第に成長し、やがて大きな成功を収める。

スポーツって楽しいよ、仲間って大切だよ、努力はいつか報われるよ。

 

こういう話が、今はちょっとやりにくいのではないか。

時代の流れと大きく括るのはちょっとダサい気がするのですが、

失敗すること、怒られることを嫌ったり、苦手としたりする風潮があるならば

「持たざる者」より「持てる者」ないし「持ってしまった者」

「失敗する者」より「できる者」、「できてしまう者」

前者より、後者が主人公の漫画のほうが読みやすく感じるのではないかと思います。

 

そして、思うに、「王道スポーツ漫画のベタ」は、後者ととても折り合いが悪い。

 

私が、ハイキューに関して心底すごいなと思うのは、

2012年に連載がスタートし、変遷する時代の価値観の中で、

ハイキュー自身、大いに軌道修正を行いながら

結果新たなファン層を取り込んで

この時代に、その「ド王道スポーツ漫画」として最後まで走り切ったところです。

 

価値観の変遷、あるいは単純に、連載年数が重なることによって

読者の年齢層の上昇も起こっていたはずで、

既存のファン層が大人になっていく中で、

スポーツ漫画のメインターゲット層である子どもたちにとっての面白さとのバランスを常に模索しなければならない使命を負っていて

はたから見ていても大変そうだと思ったし、でも、逃げずに最後まで読者に向き合い続けたハイキューは、ものすごくかっこよかったなと感じています。

 

 

ハイキュー内の軌道修正として例をあげてみますと、1つ、

作中での影山くんの取り扱い方にも表れていたかなと感じています。

 

「やっちまった事件」があったとき

(で通じるでしょうか…ユース合宿後の、返還までの烏野の紛糾の件です)

私は当時、影山くんが「トス無視事件」をすでに乗り越えたと思っていたので

あのような形でぼろりと傷が表出して

中学時代に影山くんが負った傷を甘く見ていた!!!と、自分のうかつさに心底ショックを受けました。

 

(※あのような形=謝罪寸前の影山くんの脳裏にフラッシュバックした光景が

①中学でトスが落ちたあと、「拒絶」を感じてる場面
②その仲間たちが青城で楽しげにバレーをしてる様子
③輪の中で笑う及川さんと、それを見つめる影山くん

という及川さんを含んだ3点セットで出てきたこと)

 

(過去のブログ)

やっちまった事件で自分の浅さに死にそうな女2016 WJ43号 - intermission II

 

でも今にして思えば、この返還に至るエピソードは、

やっぱり影山くんの描き方を少し、修正というか、てこ入れ?というか、

調整し再確認する意図の在ったインサートだったんじゃないかと思います。

(私の読解力のなさは今も昔も健在で、そこは救えないのですが!つらい!)

 

そもそもですが、

日向は、「持たざる」サイドの「共感型主人公」で

彼のほうに主観を置くと、どうしても「天才・影山飛雄」は客体になってしまいがちだと思うのですが、当初からハイキューは、影山くんの挫折と努力にもきちんとスポットを当てていました。

トス無視事件や、及川さんに対する苦手が描かれ、影山くんは「天才だって失敗するんだ」「苦しんで頑張っているんだ」と思わせ、読者の「天才の異質さ」へのハードルを下げる、「共感型の天才」として機能していたと思います。

ただこれは、「今まで間違っていた影山くんが、烏野の出会いによって更生した」と受け取れる展開のしかただったとも思います。

 

ところが、「やっちまった事件」、そして「返還」により、

ハイキューは影山くんの「正しい」だとか「正しくない」だとかに

もう一度、正面から向き合い直したように思えました。

 

影山くんが中学時代に負った傷は、原因が彼の「過誤」と定義され

彼の「矯正」によって解決するものではなかったと思います。

 

影山くんは、影山くん本来の揺るがぬ人間性を持っていて

それは「善」や「悪」、「正」や「否」で簡単に括られていいものでもないはずで

バレーを愛してやまず、それを生活の基礎としていた彼が、

結果として周囲と軋轢を生んだ事実はありつつも

じゃあそうしてバレー本位に生きる「天才」の生き方は、周囲に迷惑がられてもしょうがないのか。影山くんの傷ついた感情はこのまま放っておいて大丈夫か。その答えがノーだったんだと思います。

 

 

だからこそ日向は「王様」を肯定したし

「喧嘩」とトス無視事件を表現したし(影山くんの生き方を否定しないことと、軋轢を生んだ責任は五分にあるという、両方の落としどころが「喧嘩」なのだと思う…)

また、侑という影山くんと似通った立場にあった人物が、周囲から孤立せずに済んだ要因を「治」という影山くんにはなかった存在にアウトソースして、偶然を補足して

また、侑の偏向を愛と呼んだ

なんかいろいろなことに納得できる感じがあります…。

 

最初に、

「持たざる者」より「持てる者」ないし「持ってしまった者」

「失敗する者」より「できる者」、「できてしまう者」を主人公に据えたほうが読みやすいと思われる時代なのではないかと書きましたが、

これは、単に失敗や挫折を嫌って後者を選んでいるだけじゃなくて

「持てる者」「できる者」「できてしまう者」たちに対しても

想像し、共感し、傾聴できる価値観の表れでもあるのではないかと思うのです。

 

 

 

だからこそ、影山飛雄という天才少年は

「失敗した」「でも今は頑張ってる」とか

そういうキャッチーな更生エピソードがなかったとしても、

彼なりの実直な生き方や、「天才」がゆえにどこか偏向した、狭窄した人生の歩き方も、それがゆえの生きづらさも、そのままで全部まるっと愛されることができるはずで

また、

そのまま全部丸ごと愛されるよう、丁寧に、緊張感を持って描き直されたのではないかと思うのです。

 

最後の最後、「化身」に行き着いた影山くんを前に

この漫画は本当にすごいことをするなと思いました。

 

終章で、影山くんのオリジン回がありましたが、

あれを通しても、結局影山くんが「なぜバレーを好きなのか」は分からず

ただ最初からずっと彼はバレーが誰よりも大好きで

その経緯の不可解さがまさしく「化身」への道を繋いでいる気がしました。

 

「分かりやすさ」「共感しやすさ」の対極ですよね、化身。

それでもいいと思ったんだろうな。と妄想しています。

それでも影山くんがちゃんと愛されるだろうと。

 

 

ハイキューが何を描こうとしているかや

ハイキューがどの程度の作品なのかについて

 

私は終始分からない、底が知れない、常に想像を超えてくると思っていて

結局、最後までそうでした。

 

私は特に春高県大会の後のハイキューが好きです。

 

それだけというより

前半を含めて、そこからギアチェンしてきた覚悟と

前半とも全部ちゃんと整合を取りに来た誠実さや

自律的に深淵に突っ込んで、

とんでもないものを抉り出すところをとても信頼していました。

 

 

30巻の単行本の折り返しで、

古舘先生が「読み手に飽きられるのを恐れ過ぎている」と言っていたときに

大丈夫なのに!ついていくのに!と思いながらも

結果として、そうして先生が客観性を持ってバランスをとった成果物を読んで私は「ついていくよ」と思ってるんだよな~、とふと考えていました。

 

めちゃくちゃ失礼なことを言うのですが、

古舘先生という漫画家と、

自分という読者はもしかしたら、本来はあまり相性がよくなかったのかもしれません。

ハイキューよりもっとすらすら心地よく読める作品もあります。

でも、

古舘先生の理性と客観性が利きまくった、全力の誠実さが注ぎ込まれた作品に

今まで読んだどんな作品よりも魅了されました。

 

大好きでした。

先生の8年半に本当に本当に感謝しかないです。

こんなに信頼できる作者さんの作品を毎週毎週読むことができて幸せでした。

大好きです。やっぱりいよいよ寂しくてたまらないです。

 

**

 

長くなってしまった…!

一応いったんここまでにします!!

続きにお返事です~!

 

 

 

 

 

 21日AM2時台の方

お返事遅くなってすみません!そして、分かりづらいお返事の書き方で大変恐縮なのですが書かせてください💦

感想読んでくださって本当にありがとうございました。まだまだめでたい、掘り下げてほしい、私も同じ気持ちです。愛を言語化しきれていないもどかしさがずっとあります…

同情引いて…というくだり、確かにそうだな、

それでいいなと思ったのかもしれないと思いました。

そこでバランス感覚を発揮してくれる作品だから好きなのかもしれません。

みんな前向きで、こちらも安心して受け止めることができますよね。

的外れとかとんでもないです、すごく共感しながら読ませていただきました!!

こちらこそ、メッセージ本当にありがとうございました。

最終回までお疲れさまでした!!ゆっくり休まれてください…

 

3時だぁ~!