5.
その場所にいるはずのない人が、知っているはずのないおれの名前を呼んだ。
「あれ、君……日向翔陽?」
「は、ハイ!?」
場所は、目の前に立つ男の人の都会的なコートがひどく似合わない、烏野高校から歩いて10分ほどの距離にある、坂ノ下商店という小さな店の前だ。テレビのクルーがどこかに隠れていて街歩きロケでもしているんじゃないかと疑うくらい、彼はその場所で浮いていた。
「あれ、あの……もしかして」
「こんちは。初めまして、八雲と申します」
「し、知ってます!」
「だよな、ハハ、お互い『お噂はかねがね』ってやつか」
からりとした笑顔はテレビの向こうをのぞき見たかのように、ひどくよく出来ていて、おれは自転車のハンドルを握り締め、ごくりと唾を呑んだ。簡単に言うと、気圧された。
「影山がお世話になってます」
「こ、こちらこそ、影山がお世話になってます!」
自分が鸚鵡返しにして頭を下げたことでおかしなやり取りになったことに気付き、ハッとしたが、もう遅い。八雲さんは、困ったような笑顔を浮かべておれを見下ろしていた。
「――って、なるよなあ。2年くらい会ってなかったって聞いたんだけど、俺、あんまアドバンテージなさそうだな」
「えっ、ハイ!?」
よかったら、少し歩かない?
八雲道隆という、かつて日本男子バレーのエースだった人が、目元に苦笑いを浮かべながら、路地の先を指さしていた。
*
隣を歩く八雲道隆なる人物は、昨年引退したばかりの元人気バレー選手で、セカンドキャリアとして、スポーツニュースのキャスターや中継での解説など、テレビの中へ活動の場を移しているらしい。したがって、おれの生活範囲で、メディアを通してかなりよく見かける人物でもあった。
現役を退いたとはいえその体は縦にも横にも大きく、実際相対してみると、心がシュンと縮んだような気持ちになる。なんか、負けてる気がする、早々に。隣に立つのが長身の影山なら、きっとバランスが取れるのだろうけど。
世間では、きっとこんな田舎でも顔を指さされるくらいの有名人だ。10年日本のトップを張り続け、いいときも悪いときも、日本男子バレーの中心にあり続けた、屈強な人というイメージだ。
この町では、そうした経歴だけでなく、彼のキャリアの最後に相棒を務めた影山飛雄というセッターを通じて八雲さんを見ている人も多いと思う。なんかくすぐったいけど、「烏野が生んだヒーロー」とみんなが口をそろえる影山が、八雲さんの特別な存在になったことを、程度の多少はあれ、みんな知っている。「スーパーヒーローに見初められて寵愛されてる」みたいな言い方を、もちろんジョークとしてだけど普通にするから心臓に悪い。彼らの実際の関係なんて知る由もない人らがそうして語るくらい、八雲さんは影山に入れ込んでいた。笑顔で押し切りながら「好きだ」と平気で言うし、試合中も、影山の一挙手一投足を逃すまいと見つめる八雲さんをどれだけ目にしたか分からない。
「何から話せばいいかな」。八雲さんはそう切り出して、まずは、この土地を訪れた事情を語り始めた。真偽のほどをおれは知らないけど、影山のお母さんが八雲さんのファンらしく、仲がいいのなら一度家に連れて来いと誘われていたのだという。ただ、しばらくぶりの帰省だったせいで役場に1、2時間ほどの用事があるとかで、それなら影山が育った場所を見て回りたいと、八雲さんは影山とお母さんを見送って、近所を歩き始めたのだという。
自転車を押し歩くおれの隣で、八雲さんは楽しそうに背後を振り返る。
「さっき高校にも寄ったんだけど、なんかいいな。おれ私立だったし、雰囲気違う感じ。一緒の高校だったんだよな、ええと、日向くんも」
「日向でいいですよ」
「じゃあ、日向」
「ハイ! おれの家はあの山の向こうで、結構遠いんですけど、チャリこいで坂ノ下のぞきに来てたんです」
「坂ノ下ってさっきの店? ごめん、邪魔しちゃったかな」
「いえ、店の人に会いたかったんですけど、たまたまいなくて」
「ああ、そういえば女の人が店番やってたな。烏野のコーチのお店なんだっけ」
「あ……ハイ、そうなんです」
「烏養コーチ、すごくいい指導者だよな。烏野が強くなったの分かるよ」
「……なんか、変な感じします」
「何が?」
「あの八雲さんが、烏養コーチのこと知ってるんだなって」
「ん? ああ、いや……特集見たことあるし、影山がいつも褒めてるから。俺と同じくらいの年なのに、俺の10倍ちゃんとしてるって」
「八雲さんにそんなこと言ってるんですか、アイツ!」
「うん、全然言う。喧嘩も結構するし、あいつ俺が10歳上っての忘れてんじゃないかな」
八雲さんは肩を竦め、いたずらっぽく笑って見せた。
「……一緒に住んでるんですよね」
「うん」
「どうしてですか?」
「――難しいな。どう答えよう」
長い脚の、大きなストライドが少しずつ狭くなり、やがて八雲さんは立ち止まった。落ち着き払ったふるまいだった。根拠なんてないけれど、八雲さんは影山の地元を訪れるにあたって、その答えを準備して来たんじゃないか、と思った。
「俺さ、影山が好きなんだ」
カラカラ、自転車のチェーンが、乾燥した音を立てて止まった。
「……それって」
「すごく特別な『好き』だ。俺は一分でも一秒でも長く影山と過ごしたいから、一緒に住んでる。あいつの全部を一生見てたいと思う」
それは、バラエティー番組で八雲さんが話すどんな言葉とも違った。誤解の余地などない、たった一つの意味でしかない、影山に向けた真摯な愛の言葉だった。
「影山飛雄っていうのは、君にとってきっと、とても特別だったと思うけど。いろんな人にとってそうで、俺にとっても、息苦しいほど特別だった。上手くて厳しいくせに、底なしに純粋で、愛が一途で……。俺がバレーを最後まで好きでいられたのは、あいつの生きる道が、バレーそのものだったからだ」
精悍なまなざしが、おれをまっすぐ見つめていた。
日本中の女の子が魅了されていた顔だ。エースで、モテモテで、かっこよくて。そんな八雲さんが、影山を愛していると言う。
「君に、一度会っておきたかった。日向翔陽」
「……どうしてですか?」
「日向の宣戦布告、影山から聞いたよ。全日本に殴り込むってやつ」
「あ、いえ、あれは八雲さんに対してっていうか……!」
「牛島からも聞いた。『日向翔陽をけしかけておきました』って」
「あの人何やってんだ!?」
「もし君が影山と同じチームで戦えるところまで来て、俺が奪った影山の大切なものを、例えば自由なんかを取り戻させるつもりでいるのなら、……俺は、影山の手を離さなきゃいけないと思ってた。あいつが、あいつ自身のために生きられるように」
おれはハンドルを握り締めたまま、いろんな感情をないまぜに、八雲さんを見上げるしかなかった。牛島さんと話したような八雲さんへの懸念は、八雲さんもとっくに自覚していたのだ。分かっていて譲れないほどの愛情だっただけだ。
「今日日向と会ってみて、……途方に暮れてるよ。手を離したら、たぶん日向からは一生影山を取り戻せない」
「八雲さん……」
「あー……でも、フェアじゃないとダメだよな、あいつ、自分からはどうこう言わないもんな」
「か、影山は、八雲さんが好きなんじゃないんですか。付き合ってるんですか?」
「付き合ってるつもりなんだけど。あいつが俺を好きかは……まあ微妙だよな」
「え、そ、そんなもんなんですか!?」
「あいつ人との付き合い方がすごく特殊だろ。好きな相手とじゃないとできないだろってことも、ガンガン許すし」
「八雲さん、影山に何したんですか……」
「……うーん。それ答える前に、1つ聞いていい? 日向は、影山のことが好き、と思っていいんだよな」
おれがぐっと息をのんでいると、八雲さんは「俺が影山を思うより?」と、さらにハードルを引き上げてきた。
「俺はさ、あいつのことすごく綺麗だと思う」
「きっ、きれいですか」
「トスも、装飾のない生き方も。あ、顔もめちゃくちゃ美人で見惚れる。日向は?」
「おれ……は、影山の顔……そんなふうに見たことないので……」
「そっか。中学からの付き合いだっけ。そういうもんかな」
「いえ、中学からっていうか、それは1回――」
「試合したんだよな。負けてそれで、宣言した。いつか……影山を倒して、一番長くコートに立ってやるって」
「え……」
「影山は、勝ち残りたいなら強くなってみろって言ったんだっけ」
「詳しい、ん……ですね」
「日向ほどじゃないだろ?」
「――なんで、八雲さんがそんなこと知ってるんですか」
「全部教えてくれって言った。君との出会いから、高校の間のこと、合宿や試合でのこと、坂ノ下商店に立ち寄った帰り道のこと、強化合宿前にカフェで君と会ったとき、何を話したか。ずるいだろ。あいつは諦めたみたいに――呆れながら教えてくれた」
「おれのことなんて、あいつに聞いてどうするんですか」
「あの影山が、君とのことばかりあんまり鮮明に覚えてるから、やめられなくてね」
おれはそのとき、怒りとも戸惑いともつかない感情の間で揺れていた。影山の特別に滑り込んでいるのはあなたじゃないか、と思った。十分、影山は八雲さんのために心を砕いているのに、どうしておれといた影山のことまで手に入れてしまおうとするんだろう。
――「八雲さんは、影山の人生を、自分のものにしてしまうかもしれない」。牛島さんの言葉がよみがえり、おれを見下ろす八雲さんの端正な顔を、そら恐ろしくすら感じる。
「それでも、日向のほうがきっとずっと影山のことを知ってる。その君が、――影山に俺とのことを質しただろう君が、『付き合ってるんですか?』なんて疑問形で聞いてくることに、俺はやっぱり、不安になる」
「そういう意味じゃないです……あいつのこと、信用してないんですか」
「してるさ。あいつは俺を裏切ったりしない。でも、影山が、影山の心を裏切っているかもしれないと思ってる。君は、それを見透かしてるんじゃないかって」
買いかぶりだ、と言いたいけれど、八雲さんの口ぶりは、おれをからかっている風じゃない。おべんちゃらでもない。
「聞くまでもなかったな。日向は、影山が好きなんだろ。今のあいつが見てられなくて、だったら自分の手で幸せにしてやろうと思ってるんだろ」
「あいつが、幸せになってくれなきゃ困るんです」
「どうして」
「理由なんてありません」
八雲さんは頭を掻いて、ふーっと長い息をついた。
「まいったな。俺が影山に何したか、だっけ。話して、殴られておこうかな」
おれが目を見開いた、そのときだった。
「余計なこと話したらブン殴ります」
低く、聞き覚えのある声が、背後から聞こえてきた。
「俺が殴ります。ついでに日向も」
「なぜおれも……」
影山が、切れ長の瞳でおれたち2人をにらみ据えて、拳をわなわなとふるわせていた。
その怒った顔が、どう言えばいいのか。柔らかい夕日の中で、たとえようもなく、きれいだった。
「見惚れてる」
おれはハッとして、目を逸らす。そむけた視線の先で、八雲さんが困ったように笑っていた。