intermission II

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原作軸未来(モブ影、日影)(3)(4)

これの続き(このあとも続きます)
・3=モブ影のターン、日向不在
・4=日向の番




3.

 影山が大卒1年目でチーム寮の退寮を許されたのは、彼の真面目な素行が評価されたのが理由の3割ほどを占め、残り7割は俺の周到な根回しが奏功したからだった。許可が下りました、と電話で報告してきた影山が、「八雲さん何かしたでしょ?」と不信をあらわにするのがおかしくて、フロントの弱みを握っているんだとからかってみたら、真剣にしかられて、俺は諸手を挙げて降参するしかなかった。 俺はいつまでもどこまでも、このセッターにかなわない。
 Vリーグの選手たちは、基本的に独身者は寮生活で、結婚とともに退寮していく。もちろん例外はあって、現役時代の俺のように一人暮らしをしている未婚者もそれなりにいるが、影山の年齢ではまだ早いと判断されることが多い。俺が影山と同居生活をスタートさせるには、影山のチームのフロント陣の理解を得る必要があった。

「すげぇ、すんなりで。拍子抜けっす」

 俺の部屋で退寮届を書きながら、まだ疑わしげな様子で口を尖らせる、後輩を見つめる。俺の部屋の荷物は、すでにあらかた段ボールの中だった。

「聞いたら、過去例がないって言ってました」
「まあ、そうだろうな。俺も退寮したのは27とかだったかな」
「どうやって説得したんすか」
「食事とか生活リズムとかの管理は俺が全面的に面倒見る。ノウハウも教えるし、任せてくれって」
「そんだけすか」
「あと笑顔」
「ちょろくねえっすかうちのチーム……」
「俺の信頼があついって言ってくれよ」
「それはそうだろうけど」
「影山が嫌ってんなら」
「――いや、」
「俺お前のこともう一回説得するけど、どうする?」

 ボールペンを握る影山の手首をつかんで俺が言うと、彼は眉で戸惑いを表現し、唇をつんと尖らせた。すらりと光る刃物のような隙のない顔立ちをしているのに、表情のつくりはいつもあどけない。10も年下の青年を大人のずる賢さで以って囲い込んでいるのを自覚する。

「どうする? じゃないっすよ」
「そうだな。全然、選ばせてないな。ごめん」
「いいです」
「いいのかよ」
「俺、全部、自分で決めたことなんで」

 青の瞳がまっすぐ俺を捉えた。緊張を誤魔化すように、ごくりと唾を呑む。
 この芯の強さに、俺はいつでも酩酊した。俺のずるさなんかじゃ汚せない影山を、尊く、けれど遠く感じ、すがる藁もなく溺れていく。

「八雲さんも6時半に起こしますけど」
「堪えるわ」

 こうしてまた俺は、彼にかなわない今日を生き暮らすのだ。



 現役引退後、芸能事務所に所属し試合解説やスポーツ番組のキャスターなどを始めた俺は、全日本で活躍を続ける影山との同居についてしばしば質問を向けられた。俺は「そうなんです」とうなずき、家事の失敗談などをおもしろおかしく打ち明ける。この手の質問はいつもどこか遠慮がちで、「実は、繊細で面倒な話柄かもしれないぞ」と訝る躊躇いに満ち満ちていた。
 バラエティー寄りの番組になると、恋愛関係にあるのかとはっきり聞かれることもあったが、そんなときの俺の答えは決まっている。「違いますよ」。そして、「でも、とても好きです」。俺はそうして、「それはどんな好きか?」だなんて質問を笑顔ではねつけながら、誰にも譲る気がないことを、伝わる者に対してだけ表明するのだ。

「八雲さん、ご結婚は考えてらっしゃらないんですか?」

 隣の席の女性タレントが、お手本のような笑顔と女性らしさで俺に尋ねてくる。夜のスポーツ番組の生放送中、彼女は台本どおりに番組を進める。俺の答えのせりふは空欄だった。

「結婚ですか」

 きらびやかな世界。引退してから、周囲にはこれまで以上に華やかな人が増えたし、その中には少なからず、食事だのデートだのを提案し、交際のアプローチをしてくれる人もいた。何年か前の自分なら、もっと素直にその好意を受け取って、もしかすると生涯の伴侶を選ぼうとしたかもしれない。幸せとはきっとこんなものなのだろうと、自分に語り聞かせるような気持ちで、いかにも幸せそうな未来を歩んでいたかもしれない。
 だけど。

「俺、今、世界中に自慢したいくらい幸せなんですよね」

 俺の本音に、スタジオがしんと静まる。

「結婚してる場合じゃなくて」

 10年重ねた作り笑顔を忘れて、俺はただ影山の横顔を思い浮かべて微笑む。

***


 「俺だけのお前になってくれ」という俺のわがままに、影山は2年たった今も応え続けてくれている。彼が俺の口づけを拒むことはなく、抱き締めればそっと俺に身を預ける。俺の逃げ場のない愛に囲い込まれたまま、恋人をつくることもない。

「八雲さん」

 一緒に住み始めてから数か月経ったある日、洗面所の壁に両手を縫いとめられた影山が、キスで濡れた唇をわずかに動かし囁いた。

「なに」
「しないんですか……?」

 かすれた声に、俺の頭は真っ白になった。
 しない、とは。そういう意味でしかない。
 彼は変わった。初めて会ったときの、まだ19歳だった彼と、顔の造作はもちろん変わらない。昔も今も人形のようで、息が詰まるほどにきれいだと思う。だけど、ときどき目を疑うほど、妖艶になった。
 彼に与えられた責任が、俺と一緒に背負ってくれた期待と重圧が彼を変え、他人と肌を寄せ合うわけを、本能で理解させてしまったのだと怖気をふるった。

「……変な気ぃ回すな」
「これ以上は、したいわけじゃないってことですか? 俺が男だから?」
「違うよ。――影山、あのな。俺お前がそんなこと許してくれなくたって、十分すぎるくらい幸せなんだよ。いいんだよ、今のままで」
「俺のこと、そういう目では見てないですか?」
「違う……もうやめろ、だめなんだよ。それだけは取り返しがつかない」

 俺は情けなくそう言ってかぶりを振った。だめだと言いながら、彼の体温に触れる手のひらを離すことができない。

「八雲さん、俺、八雲さんとしかキスしたことないです」

 静かに語る影山の声に、ぞくりと背が震えた。

「え……」
「取り返しつかないって何ですか? 今なら取り返しつくんですか。俺は誰かに取り返される気なんてもう、ないです」

 体の中で、独占欲がうなりを上げていた。目の眩むほどの全能感で、彼の背を支える手のひらに汗がにじむ。今にして思えば、このときの影山は不自然なほど余裕がなかったのだが、俺はそれ以上に余裕がなく、立ち止まることができなかった。

「……『そういう目で』、見てるよ。見てるに決まってるだろ。いい歳して、童貞でもないのに、お前のことばっか考えて、怖いくらい欲情してんだよ。逃げてくれよ、影山」

 シャツの下の肌をまさぐる俺の手に、腕の中の影山の体がぞくりと震えた。首筋に唇を寄せれば、もっと大きくしなる。

「自分を止められる気がしない。一度でも抱いたら、今よりもっとお前に依存するし、お前を支配したくなっちまう」

 ――少し前に、俺は高校時代の彼の試合を見た。低画質のネット動画でも分かるほどの、桁外れの技術と構成力で巧みにゲームを組み立てていく少年は、俺の知る影山飛雄その人に間違いなかった。
 だが、違った。
 震えが止まらなかった。
 彼のチームメイトたちは、今影山を取り囲む人たちほどバレーが器用ではなかったし、俺より技巧的に優れたスパイカーもきっといなかった。けれどそこには、影山の幸せがあった。すべてがあった。俺が一生かけても影山に与えてやりたいと願った一切が何もかも当たり前だと言わんばかりに。
 俺の本音は情けなく口から滑り出た。

「どこにも行かないでくれ」

 透き通るような覚悟で俺を許した影山は、俺に抱かれながら泣いていた。影山が泣くのを見たのは、それが初めてだった。


 影山のかつての相棒、日向翔陽が男子代表の強化選手に選ばれたと知らされたのは、その数日後のことだった。――恐らく彼は、そのことを知っていたのだと思う。

「どこにも行きません」

 影山は、自分の逃げ道を塞いだのだ。



4.


 再会の作り笑顔を何回練習したか分からない。

 おれが影山と最後に会ったのは、試合会場でガンをつけ合った2年ちょっと前くらいのことで、それ以降はタイミングも合わず、滞在場所が重なってもすれ違ってばかりだった。
 要するに、全日本に定着してからの影山と、おれはきちんと目を見て会話をしていない。おれがあいつと同じステージに上がるまでは、それでいいと思っていた。途中口を利かなくなる期間くらいあったほうが因縁のライバル風情が出そうだし、代表のジャージを着た俺に、影山が鼻先をこすりながら「待ってたぜ」とか言ってくれれば、おれも「待たせたな」とカッコよくきめられるのではないか、なんて妄想していたのだ。
 まさか、数年ぶりの再会がこんな空気になるなんて俺だって思わない。

「お前強化選手って言ったよな」

 まだ4月だというのに日ざしが強く、昼過ぎに記録した最高気温が真夏のそれに迫るほどの暑さになった。逃げ込むように入ったカフェで、けれど、影山飛雄は絶対零度の恐ろしく冷え切った顔をして俺を睨み据えていた。

「お、おう、言った」
「ふつうな。強化選手っつったら、オリンピックの強化指定選手のことだろうが?」
「どうかな、と、東京ではそうかも」
「あ? なんだその言い訳。ひねり潰すぞ」

 せめて、烈火のごとく怒鳴り散らすほうの怒り方のがよかった。しず影山ほど怖いものはない。

「強化『合宿を手伝う』選手に選ばれたってんなら、そう言えこのボゲ!」

 ひねり潰すぞ、と影山はもう一度うなった。


**

 やっぱり、二人きりで会うんじゃなかった。案の定後悔するはめになったが、ただでさえうまくいく予感のしない「久方ぶりの再会」というミッションに、「初めて二人きりで外で会う」なんて初体験を上乗せしてしまったのは、シンプルに、おれの勇気が足りなかったからだ。
 もう何年も会っていない。仲の悪い影山との間でも、さすがに積もる話が山ほどあった。強化合宿で、そわそわ話しかける機会を窺うおれ、普通に無視する影山、それが数日続いて――となったら、おれの感情は思わぬ形で噴火して、あることないこと、本心じゃないこと言うべきじゃないことを、言ってしまいそうで怖かった。
 有力な情報筋から手に入れたスケジュールをもとにお互いが東京にいるタイミングを見計らって、会えるかとメールで尋ねたら、影山は「おう」とだけ返事を寄越した。それきりだったので、時間と駅をおれが一方的に指定して、うんうん葛藤しているうちに今日が来た。
 大学のとき、練習試合で一度訪れただけの郊外の駅は東京と思えないくらい静かで、ちょっとだけ懐かしくなる、田舎っぽい空気があった。おれがそう思うってことは、きっと影山も。約束の20分前に到着したおれは、そんなことを期待しながら影山を待った。
 周辺を散策していたおれが踵を返し、駅に向かう坂道を見上げたとき、駅舎からふらりと人影が現れた。背が高くて、おれの理性の部分はそれを「影山だ」と認識したのに、心はそれを認めなかった。おれに気付いて振り返った影山は、水の詰まった風船か何かなんじゃないかというくらい透明な佇まいでそこに立っていて、向こうの景色が透けている気さえした。
 影山が、坂道を下りてくる。一歩一歩、風に髪をなぶられながら、足音も立てずに歩き、おれの数メートル手前でぴたりと止まった。

「お、おう」

 なんとかそれだけ言った。目の前の、元相棒のはずの男は、見知らぬ潔白さでそこに立っていた。共に汗を流したのとは違う。テレビの中で黄色い歓声を浴びている彼とも違う。一人の偉大なるバレー選手に人生をかけて愛された、影山飛雄という名前の青年が、孤独をたたえた瞳でおれを見つめていた。
 取り返しがつかない。と、おれは思った。そういうきれいさだった。



 話を現在に戻す。

「いや、うん。まあ、似たようなもんだろ! 強化する選手なんだから。ちなみに電話でもちゃんと言ったぞ。小声だったけど……」

 尻すぼみになる俺に、「ふざっけんな」と影山が舌打ちをかましてくる。本当に怖い。

「うー、悪かったって。けどそこまでキレなくてもいいじゃんか!」
「お前、この……。――信じた俺がバカだった。くそっ、返せ俺の……」
「はい?」
「なんでもねえよ……」
「はあ?」

 影山は右手で眉間を押さえ、溜め息をついた。さっき注文を取りに来たフロアの女の子が、その横顔をちらちら盗み見ている。はい、当たりです。大人気イケメンバレー選手影山くんですよ。話しかけたらおれ怒るけど。

「じゃあ、まだずっと先じゃねーか」
「先って? おれが全日本に選ばれるまで?」
「ずーっとずーっと先だろ」
「ずっとじゃねえし! そのアピールしに合宿行くんだろ!」
「アピールしに来んじゃねーよ。メーワクだから大人しくしてろ」
「影山くんはコーチか何かですか! えらそーだなー」

 憤慨しつつ、実際、影山が今23歳にしてトップチームの中で相当の力を持っていることも、おれはよくよく知っていた。人選とかに口を出すタイプではないけれど、八雲道隆の抜けた今の代表チームで影山が戦略上の根幹といっていい立場にあることは間違いない。
 ――そうだ。あのエースがチームを去ったところで、影山の全日本における重要度は今さら変わらない。そして、八雲さんと影山の近すぎる関係も、まだ変わっていないとテレビが言う。

「なあ、影山」
「あんだよ」
「八雲さんと一緒に住んでるってほんと?」

 ぱちぱち、と影山は二度まばたきをした。

「改まって聞くことかよ。お前に関係ないだろ」
「なんではぐらかすんだよ」
「はぐらかしてねーよ。インタビューとかで普通にそうだって言ってる」

 うん。おれもそれは知ってるけど。
 目を逸らした影山の横顔には、静かな動揺が浮かんでいた。

「八雲さんってさ、すげー選手だったよな。おれらが高校生のころも、男子バレーのニュースはいつも八雲さんがどうしたこうしたって、ほんとそればっかでさ。大事なとことか苦しいときとかにズバッと決めてくれる日本の絶対エースって感じで。強くてかっこいい、みんなのヒーローだった。おれもちょー憧れてた」
「何だよ急に……」
「一緒に住み始めたのって、八雲さんが影山のこと好きだからなんだろ」
「何言って……」
「八雲さんがそうテレビで言ってた」
「……っ、それは、ちが」
「影山、八雲さんと付き合ってるんだよな」

 一瞬、影山の顔から表情が消えた。
 おれの体の中で内臓がずんと沈んだ。

「……なんでそんな話になんだよ」
「影山、首。ここ、ずっと見えてる」

 おれが自分の首筋を指さすと、影山ははっとしてうつむき、手のひらで素早くうなじを隠した。大きな目を見開いて、影山はそろそろおれを見上げる。

「……うそだよ」
「っ、何のつもりだ……」
「――なあ。お前、八雲さんが好きなの?」
「……だったら悪いかよ」
「悪くないよ。ほんとに好きなら」

 薄い唇がきゅっと結ばれる。怒ってるのが肌で分かった。きっと、影山が誰にも触られたくない部分に触った。

「いっつも、どこでも、八雲さんはお前のことが好きだって言ってる。あんなにめちゃくちゃ愛されて、好きだって言われて、お前が……八雲さんを拒絶するとは思わない。でもさ、影山。お前を好きなのは八雲さんだけじゃないんだし」
「は……?」
「ほんとに今のままでいいのか、一回ちゃんと考えろよ。お前が、知らない誰かみたいに遠くなってくの、怖い。顔すげえ、寂しそうだ、お前」

 こうして行動することが正しいのかどうかまだおれには分からなくて、おれは影山に、八雲さんに、心の中で何度も謝った。
 ただ、あの影山を手に入れてしまう人がこの世にいるのなら、おれは一人一人、全員に「影山飛雄を本当に幸せにしてくれますか」と聞かずにいられないのだと思う。それが男子バレーのスーパーヒーローでも、あるいは自分自身であったとしても。