intermission II

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原作軸未来(モブ影、日影)(1)(2)

・2話構成、1=日向視点、2=モブ視点
・牛島さんチョイ出
・続き:3~4話5話(未完)




1.
 おれが中学に上がったころ、テレビで「大人」のやっている男子バレーでは、「八雲さん」という名のウイングスパイカーが日本のヒーローだった。ヒーローといっても、今の年齢から差し引きで考えると当時の八雲さんはまだ23、24歳くらいだったはずなのだが、男子バレーイコール八雲というくらい知名度は彼一強で、テレビにもよく出ていたし、やや下火になっていた男子バレーの人気を今日に至るまで牽引してきた人物が彼だった。
 八雲――八雲道隆という選手は、実力ももちろん十分あったし、顔も精悍でかっこよくて、人気が出るのも必然だった気がするけれど、おれの見解では、名前の力もけっこうあったと思う。やくもみちたか。女の子が声に出して言いたい名前って感じ。大王様の「及川徹」をおれは勝手に思い出し、同じような路線だなと結論づける。八雲くん。八雲さん。男子バレーの世界には、この7、8年、いつも彼の名前があった。
 キャリアが長くなるにつれ、八雲さんはチームのエースから、ベテランの重鎮へと立ち位置を変えていった。バレーを志す選手の誰もが彼への憧れを口にし、慕い、代表チームに選ばれるということは、彼のチームで戦うこととして語られた。
 ある年、日本男子バレーは国際大会で惨敗を喫し、オリンピックへの出場権を逃した。厳しい批判が男子チームに向けられる中、矢面に立ったのはやはり八雲さんで、まるで監督のようにその責任を背負い、4年後の大会でのリベンジを誓う姿は、おれの目にはひどく悲壮で、孤独に映った。
 そんな八雲さんも30代になり、次のオリンピックで引退かとささやかれるようになったころ、日本代表チームに1つの変化が起こった。影山が、19歳にして全日本トップチームに選出されたのだ。まだ大学生で、年代別の主力として活躍していたころだ。3年後にオリンピックを控えながら戦況の思わしくないトップチームが、世間への申し開きのように掲げた改革の1つが、10代のセッター影山の抜擢だったのだ。
 だめでもともと、若手の抜擢それ自体はしばしば起こることだが、やはりセッターとなると話は難しくなる。実際影山がトップチームで戦うようになってから、敗戦のたびにセッターに批判が集中したし、フロント陣は我慢を強いられながら影山を起用し続けることになった。中でもおれが心配していたのは、あの頑固者の影山が日本のバレーを支え続けてきたベテラン選手たちと上手くやっていけるのかということで、特に八雲さんとの間で軋轢を生じているとまことしやかにニュース記事にされたりして、おれは気が気ではなかった。
 だが、そうした時期が半年ほど続き、その年の全日本シーズンが終わりに近づいたころ、影山はすでに全日本で確固たる地位を築き上げていた。たぶん、オリンピックの出場権を懸けた公式戦も本戦も、正セッターは影山になる。おれはそう確信したし、ニュースも世間も、いつの間にやらそっちに意見が傾いていた。影山の、時にチームをゆがめるほどの独創性は彼を理解するチームメイトたちによって打開力を持った大きな1つの戦術となり、日本男子バレーは、影山を選び、その腹の中へと呑み込んだ。
 世間の怪訝なんてどこ吹く風で、影山は案外あっさり代表チームになじんだ。その理由の1つは八雲さんだ。キャプテンの責任感もあったのだろう、八雲さんは影山がチームに溶け込めるよう積極的に機会をつくり、SNSとかでそれを世間にアピールした。不仲説を唱えていた人たちも、形だけじゃなく、芯からの親しさの滲む写真や言葉に次第に説得され、「影山猫かわいがり説」に宗旨替えしていった。
 その雲行きが変わり始めたのはその年の暮れのこと。インスタに載せる食事の写真は、やがて一人二人と人数が減っていき、いつしか八雲さんと影山の二人だけになって、翌春を迎えるころ、ファインダーの向こうにいるのは影山一人となっていた。八雲さんには影山がこんなふうに見えているんだな、と分かるような、淡い笑みを浮かべる影山の写真だ。それが続いた。わずかの出口を求めるかのように、それだけが。
 テレビで見続けたバレーの権化のような人のそばに影山が居場所を持っていることが不思議で、おれには遠近感がつかめないような感覚があった。10以上も歳の離れた後輩で、日の丸を背負う苦悩も、走り続けなければいけないしんどさもまだ知らないはずの影山に、八雲さんが何を期待したのか、あるいはしなかったのかさえ分からない。おれの知る影山は面白い話をしないし、気の利いたことは言えないし、バレー以外なんにもできなくて、いつも息苦しいほど真剣だ。長く全日本チームの前線に立ち続け、疲れを目尻の小じわに溜めた八雲さんの、心の癒やしになるようなやつじゃなかった。と、思う。
 いつしか、噂が立つようになった。女性関係で、明らかに飛ばしと分かる程度の浮き名しか流したことのなかった八雲さんが影山をひどくかわいがるから、二人は怪しい関係になってるんじゃないかって。影山の恋愛事情は置いておくとしても、あの強くて穏やかで自分に厳しい八雲さんが影山に? って考えると、その説には無理しかなかった。
 たとえ――たとえ、赤いユニフォームを着てコートに立つ影山が、まるで一人スポットライトを浴びているかのように、白く透き通って見えたとしても。時折浮かべるはにかんだ笑顔が、切り取って、閉じ込めてしまいたいほど、きれいだったとしても。影山は影山なのだから、「俺のセッター」って、添えたそのキャプション、本当のわけがないから。





 オリンピック出場を決めた一戦の翌日、立ち尽くす影山と、その背後から涙を浮かべて影山を抱き締める八雲さんの姿が各紙の一面を飾った。八雲さんは影山のうなじに口づけていた。もう、誰もおもしろおかしく弄れないような、透明な感情がそこにあり、おれは新聞から、ニュースから、目を逸らした。擦れ違うほどの短い時間。日本の大バレー、八雲さんが、影山を愛さずにはいられなかった理由を、おれは影山と出会ってから今までずっと知っていた。

 ある日、街で、牛島さんと出会った。おれは牛島さんの顔を見た途端、手を伸ばしてすがりつかずにはいられなくて、おれの顔はどれだけひどかったのだろうか、牛島さんは何もかも悟ったような顔でおれと話す時間をつくってくれた。牛島さんは全日本チームで、あの二人をずっとそばで見ていたはずなのだ。
 牛島さんは、まずおれに、影山と連絡を取っているのかと尋ねた。おれは首を横に振った。すると、喫茶店の小さなクラシックに柔らかく溶けるような声で、牛島さんは、取ったほうがいい、と言った。
 おれの心のつかえが八雲さんのことだと牛島さんは分かっていた。入っていけない、もう、影山との近づき方が分からないと、繕うこともできずに話すおれに、牛島さんは、影山のために連絡を取ってやれとまた言った。おれには意味が分からなかったので、牛島さんの説明を待った。
 八雲さんは、影山の人生を、自分のものにしてしまうかもしれない。牛島さんは難しい顔で言った。
 彼はもう、バレーを終えるのに。彼がバレーを終えたあとも、影山はバレーを辞めることなどできないのに、影山の何もかもを自分の人生の答えかのように欲しがっている。影山なしでは生きていけない。影山も考えることをやめ、自分を八雲さんに譲り渡してしまっている。だが違う。影山は八雲さんがいなくても生きていける。それを思い出させることができるのは日向翔陽、お前だけなのかもしれない。
 具体的な事情を知らないおれは、牛島さんの言葉の意味を半分ほども分かっていなかったのかもしれない。でも、おれの中では、熱い決意が形を成そうとしていた。あそこに行かなければ。影山を影山に取り戻さなければ。閉じ切ったままだった唇はカサついていた。顎にかすかな痛みを覚えながら、おれは口を開いた。

「あいつはときどきそうなんです。自分の価値に、臆病で」

 牛島さんはそうかと頷いた。

「だけど、おれにはあいつを諦めるなんてできない……」

 なら、すべきことをしろ。牛島さんはそう言って、立ち上がった。なにもできなくてすまないと、低い声で謝りながら去った。



 それからすぐ、オリンピック後の引退を八雲さんは発表して、世間はそれを受け止めた。影山はせつなく、優しい顔で、会見を見守っていた。

「日向? 急に、なんだおまえ」
「なんだは、お前だろ!」

 慌ててかけた電話に、影山は、聞き慣れすぎた声で答えた。何も変わらない。まだ、影山が、誰かのものなんかじゃなかったころと同じ声だ。

「すぐ行くから首洗って、あっ、マジで洗って、待ってろ!」
「はあ? 首洗う?」
「念入りに! 頼むから!」

 おれは影山のことが好きだった。ずっとずっと好きだった。



2.
 余計なものが何もない男だった。それが、必要なものすら持っていないことの代償だったことに俺が気付いたのは、もう取り返しのつかないところまで彼にのめり込んでしまってからの話だ。
 世間はだいたい正解だった。俺は影山のことを当初、受け入れ難く思っていた。
 オリンピックまで残り3年、出場権の獲得を計算すれば人選に多くの選択肢を持てない中で影山飛雄は全日本のトップチームに招集され、衆目を引きずりやって来た。エクスキューズ、その場しのぎ、梱包された手詰まり。俺は目の前に立つ少年を哀れに思った。新監督がやりがちなことなのだ。以前の監督との戦略の違いを喧伝するために、重用されていたイメージのある選手を外し、目新しい人間を投入する。往々にしてそれはうまくいかない。まっさらで手あかのついていない即戦力なんてめったにいるものではないからだ。大抵、経験と実績のある選手のほうが結果を出す。何も知らずにここへやって来た無知な少年がひどくあわれだと思った。

「よろしくな、影山」
「よろしくお願いします」

 肩幅に足を開き、僅かの舞い上がりも見せることなく俺の手を握り返した少年は、意志の強そうな瞳を澄み渡らせていた。
 きれいな顔をしているなと思った。雄々しいわけでも、中性的なわけでもない、ただ見る者に端正だなと印象を残す、言葉未満のうつくしさがあった。
 思えば、あのときからすでに俺は平衡感覚を失い始めていたに違いない。だが、彼の招集への疑問符が勝った俺は、「どのみち長くは続かないだろう」だなんて、胸のさざなみに堰をつくっていた。

 速くて正確で展開の引き出しが多い。合宿で起用された新人セッターへのコーチらの評は嘘ではなく、世代トップとの呼び声も納得のいくものだった。愛想はないが礼儀もきちんとしていて、少なくとも品行を理由に排除されるような選手でもなかった。こちらが誘えば食事を断ることもなく、10も上の先輩たちについてきては黙々と肉を食べていた。
 ただ、やはり、過剰な期待だという印象はぬぐえなかった。足りている、及第点は出している、しかし、彼への要求は「革命を起こせ」だった。むちゃなことを言う。きちんと時間をかけて育てれば日本の男子バレーの未来を背負う存在になっただろうに、このままでは出る杭として打たれて終わるかもしれない。「荷が重いと思う」。俺は何度か監督に進言した。聞き入れられることはなかった。

 俺が考えを変えたのは、影山が初めてスタメン出場した公式戦でのことだった。それまでも影山の出場機会自体は何度もあったが、いずれもセット途中の交代で、ピンチサーバー起用から長くてセット終わりまで、短ければ1本で交代するような、限られた時間の出場にとどまっていた。
 試合は日本の劣勢だった。そもそも世界ランクからしたって大いに実力差のある相手で、差があるがゆえにこちらもミスが多く、合わせ慣れない影山とのコンビミスもたびたび起こっていた。
 2セットをストレートで取られたあとの、3セット目。影山が俺を選んだトスは、俺の最高打点を大幅に超えた場所に上がり、明確に、頂点を過ぎ落下する途中の高さで俺に打たせようとして飛んできた。おかしなスピンもかかっていた。打ち損ねた俺は軟打でなんとか逃れ、戦慄を覚えながらセッターを振り返った。
 コートに走る緊張を察知し、監督がタイムを取ろうと動いたのが見え、俺はそれをジェスチャーで制した。影山の、決意に燃えた瞳が俺を焼き尽くさんばかりに捉えている。唇を噛んだ俺は、黙ってネットに向き直った。
 「考えろ」。影山はおのれのトスで、そう伝えていた。ちゃんとブロックを見ているか。敵コートを見ているか。駆け引きをしているのか。慣れによって排除した選択肢はないのか。
 ジャンプをしてから打つまでに時間を残すトスは、俺に、その時間を使って思考を巡らせることを要求していた。饒舌なセッターのどんな叱咤激励より雄弁な、苛立ちと激しさを孕んだトスだった。
 影山が正しかったとは思わない。当時はまだ彼が俺を理解していたとは思えない段階だったし、敵コートの状況や仲間の状態を、いくら影山が天才セッターだからといってあの場で誰より理解していたわけでもない。公式戦の最中に、チャンス時のトス1本を使って伝えるべきことだったかも怪しい。だから一部のチームメイトやコーチ、マスコミも影山も批判したのだろう。
 だが、俺にはどうでもよかった。関係なかった。結局その試合に負けたことさえ大きな問題とは思えなかった。
 影山は、俺と同じ場所に立とうとしていた。俺に対して怒り、それを直接ぶつけ、そして俺の背負っていた責任さえ、ごく当たり前に共に担おうとしていた。
 試合のあと、影山は言った。

「コートには6人もいるし、でも6人しかいねえし」

 いつもどおりの散らかりきった物言いで続けた。

「ムカついたらケンカしていいって、教わりました」

 誰に。コーチに。なんてこと教えたんだ。え、違うんですか。
 肩に額をあずけ、一回り小さな体を抱き締める俺をぎこちなく抱き止めながら、影山はあどけなく呟いた。



 影山と過ごす時間が増えた。正しくは、俺が増やした。彼の話が聞きたかったし、俺の話を静かに聞く彼の無表情を見ているのが好きだった。影山も多く参加するようになった合宿や遠征中の食事は、いつしか俺にとって、彼さえいればいい空間に変わっていった。

「八雲と影山がうまくハマって、ほんとによかったよ」

 影山の隣のチームメイトが笑顔を見せる。チームは上り調子で、影山も馴染んできて、みんな機嫌がよかった。

「まだまだ。もっと理解し合わなきゃな」

 俺の言葉を、影山はまた無表情に聞いている。

「そういえば、八雲、もうすぐ誕生日だっけ」
「ああ、忘れてた。もう31か」
「昔、お前、20代のうちに結婚したいとか言ってなかった?」
「……そうだっけ?」
「言ってた言ってた。なあ?」
「うん。言ってたっすよ、八雲さん」
「そうかあ?」

 黙々と箸を進める影山以外が同意して、俺は首を傾げつつも、確かにそんなことを言っていた時期があるのを思い出していた。
 なんとなく、周りがそうだったし、自分もそんなものだろうと思っていた。夢中で駆け抜けているうちに、いつの間にか時は過ぎていた。

「なんかどうでもよくなったな、そういうの。なんでだろ。いつでもいいし、しなくてもいいかも」

 「ええー?」と疑問の声が上がる中、俺はふと、正面に座っていた影山を見た。
 20代のころから、何人か付き合っていた女の子はいた。かわいいお嫁さんをもらって、支えてもらって、俺はバレーを頑張って。昔は漠然とそんなことを考えていた。みんな可愛くて、優しくて、俺を尊重してくれて、だけどなぜか、うまくいかなかった。
 俺の視線に気付いた影山がふと、顔を上げた。何を言うでもなく俺を見つめ、数度、まばたきをする。出会ったころと変わらない唯一無二のうつくしさに、俺は息を呑んだ。
 バレー以外何も知らない少年だ。だけど、一緒にいたい。話がしたい。ほかに誰も要らない、お前さえ俺のそばにいてくれるのなら、どんな責任でも背負ってみせるし、批判だって耐えられる。そんな気持ちになり、やがて、この感情を愛と呼ぶのだと悟った。俺は仲間としてだけではなく、おのれの人生に影山飛雄を必要とし、恋い焦がれていたのだ。

「何も要らないよ」

 俺は影山の瞳を見つめたまま言った。

「俺はバレーに全部ささげちまった」

 だからお前に出会えた。それでいい。俺にはお前がいれば、それだけで人生の何もかもに理由が生まれて、ほかには何も、要らなくなる。



 翌年、再び数度の海外遠征を終え、国内リーグの開始を前に練習の日々を過ごしていたある日、俺は影山を自宅に招いた。1年分の慣れのせいか、「意外と散らかってますね」なんて失礼なことを言いながら影山はソファーの前に腰を下ろし、俺は彼のそばに座って、俺を見上げる端正な後輩の顔を見つめた。窓の外は曇り空で、のっぺりとした灰色が影山の頬に妖しく影を作っていた。

「影山、俺はな」

 影山は相槌も返さなかった。俺が彼の手を握ったせいだろう。

「お前がいなきゃ、きっと耐えられなかった」

 指を擦る。俺を認め、叱り、許し、信じる指を慈しんで、その体温を感じた。

「周りに期待されてるような頑丈な人間じゃなくてさ。いつもどこか、決壊しそうな器を、必死に目張りして使ってるみたいだった。それが、嘘をついてるみたいで嫌だった」

 影山は何も言わず、俺の独白を聞いている。

「どこかでちゃんと言ったほうがいいんじゃないかって思ってた。けど、お前が、現れて……。あのとき、19か。俺が全日本に選ばれたのと同じ歳だな。もう10年以上前だ。昔すぎ、あのころはよかったな。ああ、じゃなくて……お前今まだ二十歳か。まだ全然子どもじゃねーか。これからいろいろあるよ、たぶん……。お前はそういうのまだちっとも知らないだろ。だけど――」
「八雲さん」

 影山の声に、はっと目を見開いた。影山は小さく首を傾げ、「八雲さん?」と繰り返した。
 愛おしさが込み上げて、苦しくて、俺の顎は不恰好にかちかちと震えた。

「俺は、お前に頼ってる……」
「そう、ですか?」
「お前がいてくれたら、俺は『八雲』を最後まで演じきれるんじゃないかと思う。それで、それができるなら、そうしたい。みんなの期待に最後まで応えたい。俺の最後の仕事だ」

 声がかすれた。どうしようもなく本音だった。俯く俺の肩に、温かい手が触れた。

「八雲さんは、俺がガキのころから、ずっと尊敬してた人です。今も変わらないです。八雲さんがオリンピックで強ぇやつらにボコボコスパイク決めてんの見たいって思ってる人、俺もだし、たくさんいます」
「……ああ」
「俺はどうしたらいいですか?」
「影山……」

 俺は姿勢を正し、影山の両肩を抱いた。ぱちぱちと無垢なまばたきを繰り返す影山の瞳の中に、俺への甘さが溢れている。たった今、彼が言ったとおりの理由で俺を許す、そう覚悟を決めているかのように。

「『何も要らない』……。お前さえいれば、俺は、何も要らない、影山」

 腕をつかんで引き寄せる。体勢を崩した影山が、胸に倒れ込んでくる。

「好きだ。俺だけのお前になってくれ」

 抱き締めた体がぴくりと震えた。丸い頭が動いて、この1年であっという間にみんなの瞳を釘づけにしてしまったきれいな顔が、俺だけを、驚いたように見ている。

「好き?」
「愛してる。なんだ、何て言えば伝わるんだお前。お前しか見えない、お前が俺のものだって、世界中に言いたい。なんだ、ほら、分かるだろ。ピンと来てくれ」
「八雲さん」

 その、時間にすれば僅か3、4秒ほどの影山の表情の移り変わりを、連続写真のように、俺は覚えている。何かを悟って、決めて、諦める、そういう表情だと、俺は気付いていた。

「どうぞ」

 俺の肩口に顔を載せ、ゆるく俺の体を抱きながら、影山は囁いた。

「なんで俺がいいのか、分かんねえけど、あんたが言うなら」
「おい……」
「あんた、変わった人ですね」

 「八雲」を盾にした俺は、影山がそうして許してくれるのを分かっていた気がする。それでもいい。どんなにずるくても、俺は影山を奪い去ってしまいたかったのだ。



 引退の日が近づいていた。俺が手に入れた影山飛雄という男は日に日に底知れなくなり、俺は途方に暮れながら、人目を盗んでは彼に口づけ、彼を愛し続けていた。バレーを辞めてしまった自分を影山がどんな目で見つめるようになるのか想像もつかなかったけれど、8月や9月の約束を、来年の、5年後の約束を作り、許され、ぞっとするほどの満足に溺れていた。

「この大会が終わったら」

 いつの間にか、分不相応でも過剰でもなくなった期待を堂々背負い、ユニフォームを身の丈ぴったりに着こなした影山が、遠くを見つめて俺に語った。

「俺の、高校のときの相棒……みてーなのがいるんすけど、そいつが全日本に殴り込むって。全然そんなレベルじゃないんすけど、アイツ。なんか、八雲さんを超えたいらしいです」
「そうか。どういうやつか、楽しみだけど――。そいつはきっと、俺を許さないだろうな」
「え?」
「ごめんな。そいつの気持ち分かるけど、でもまだ譲れない。って、言っといて」
「はあ、言っときます……?」

 戸惑う影山の瞳には、今もやっぱり、覚悟が見え隠れしている。どんな結果になっても、俺がどんな人間でも、俺のバレー人生にかけて許そうとする、その覚悟だ。自分を大切にする気持ちが欠けているせいなのだと今は知っている。
 いつか、――今すぐにはできそうにないけれど、いつか、彼の幸せだけを願って、彼が選ぶべき道を後押しできればと思う。お前が俺にくれたすべての代わりに、例えばお前を救いに来る、誰かの腕の中に向けて。