intermission II

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原作軸未来(及影)

・経験豊かな影山くん注意(名前が出ますが牛、侑は該当ではありません)

 


 

 何やってんだ、俺。
 そんな内省の言葉が聞こえてくるようだったので笑った。寝起き数秒後の情緒のクリアさがまず可笑しい。それから、及川ではなく自分に悔悟の矛先が向かうことにも、影山飛雄の生き物としての生々しさ、人物像の描写の正確さのようなものを感じて、なんだか興奮する。目頭を人さし指の先で押さえて、彼は「経緯」と唸った。

 

「俺こと敬愛すべき及川先輩が一時来日。人脈を活かして特定したお前の仮寓先のホテルを訪ねる。日に焼けた肌、快活そうな笑顔、左手にはマルベックの瓶」
「飲んだのか俺」
「意外と量いってたねぇ」

 

 ああ、と声を漏らしながら枕に顔をうずめる。その肩が白くて、及川は懐かしさを覚える。この白磁のような肌を美しいと思う自分の感性が懐かしい。
 ――あいつなら帰国中、○○っていうホテルにいますよ。スポンサーの系列会社が経営してるホテルで、最上階を無償提供。○○ホテルの最上階ですよ、えぐいでしょ?
 あ、そ。ふうん。ありがとね、じゃあまた今度ね。
 それなりに弾ませたアイドリングトークはどこへやら、影山飛雄の逗留先を聞き出すや早々に会話を切り上げようとする及川の様子を受け、ようやく目的を察したらしい相手が声に焦りをにじませた。
 まさか、行きませんよね? そんなことしないですよね、だって、及川さんとあいつ、仲悪いですもんね?
 こう「仲悪くあれ」と期待されては不本意だが、時間もなかったので「もちろん最悪だよ、どこに出しても恥ずかしくない険悪さ、俺を信じてよ!」と陽気に請け合い、「そうですよね、確かに信用できます!」と力強くうなずかれたその2時間後にはホテルの部屋の前にいた。
 チャイムを鳴らされ応対に出てきた影山飛雄は、その仮住まいに来客など想定していなかったのだろう。先刻タクシーの車載モニタのCMで見たスーツ姿の彼とは打って変わった、ゆったりとしたパーカー姿で戸口に立ち、呆然とした様子で肩からずるりと袖を落とした。

 ホテルはいわゆるレジデンスタイプで、想像していた以上に広く、そして生活感があった。バルミューダの電気ケトルはコンセントにつながれていたし、シンクには食器がいくつか沈み、木製の格子戸で仕切られた向こうのバスルームは湿気で曇っている。影山は風呂上がりだったらしく、漂ってくるシャンプーの香りが、妙に暮らしじみていた。
 絶句した影山が後ずさり、右手で顔を覆って、「やばい人来た」と堂々元先輩をディスるひとくだりのあと、及川は数年通った彼女の家くらい手慣れた手際で食器を用意し酒とつまみを広げた。上品にカーブしたソファー(すごく高そうな)のあっちのへりとこっちの角で中途半端な距離を保ち、酒宴は始まった。
 この強引な再会に及川なりの目的を補足するなら、気持ちの整理をつけたい。もっと分かりやすく言うと、自分が立派な大人になれたことを確かめたい、というようなねらいがあった。飛雄も俺も大人になったよね、こうやってお酒とか飲めるくらい、激情を差し挟まなくても会話を続けられるくらい。お互いイメージもあることですし、この先NHKから対談依頼とかあった際には落ち着いてスマートにこなしませんか、どうですか?
 コートの外の影山飛雄に会うのは実に5年以上ぶりのことだった。ソファーの隅で顔をしかめながらちびちびワインを舐める影山は言葉少なで、及川が数百文字しゃべるのに対し「はあ」とか「まあ」で会話を終わらせてくる。警戒されているのだろうかと思ったが、よく考えてみると及川はバレーを離れた影山飛雄というものにあまり詳しくない。どちらかというとコミュニケーション能力の問題で上手くしゃべれていないのではないか、コート外の影山は意外とおっとりしているのではないか、という発想に行き着き、急ぎトイレで日向翔陽に電話をかけた。

 

「ねえ飛雄っておっとりしてる?」
「はい? してません、及川さんちわっす、もしかして影山と会ってるんですか?」
「オフの飛雄がおっとりしてるの解釈一致?」
「うわ、全然人の話聞かない! 不一致です!」
「飛雄にノンデリカシー発言されないと落ち着かない、どうしたらいい」
「あの、及川さん。……今会ってるんですね?」
「会ってる」
「じゃああの……まあ、ぼけっとはしてるかも。最近忙しいみたいで、夜はホテルで寝るだけって言ってたし。ぽけっとしてても怒らないであげて、ほどほどで寝かせてやってください!」
「ショーヨーって飛雄の保護者だっけ!?」

 

 電話が切れる。
 リビングに戻ると影山がソファーで膝を抱えて丸くなっている。放っておいたら本当に寝落ちしそうだった。

 

「飛雄」
「はい」

 

 妙に行儀のよい返事がある。
 そばに腰かけると、影山は膝を床に下ろして、及川のほうを見た。

 

「ねえ、人見知ってんじゃないよ、俺に」
「見知りますよ」

 

 吐息の混じる声音が妙に大人びていた。青い瞳がつ、とすべるように動いて、すくい上げるようにようやく隣人を見た。

 

「対談とか受けてよ普通に」
「嫌……っすね」
「俺と最新のバレー談義したくない? VNLリーグ最終戦、なぜ日本はイランに負けたと思う?」
「……及川さん」

 

 耳裏をぞわりと這い上がるような声に、及川ははっとする。今日再会してから、初めて名前を呼ばれたと思う。

 

「遠いっす。及川さんは」
「遠い?」
「そういう話は牛島さんとか日向とか侑さんとか……仲間とはします、言いたいこと言えるし。及川さんとは腹の探り合いになるからめんどくせえ」
「……そんな情緒ないことある?」
「情緒はあります」
「敵どうしにもかかわらず、議論は熱を帯び、夜を徹して盛り上がっちゃってお互いがお互いの最高の理解者だって気付く尊い展開来るでしょ普通」
「……及川さんのソウイウ枠どうせ埋まってるだろ」
「枠ぅ?」
「いや……もう寝ませんか。及川さんはそこで飲んでても別にいいんで、俺は寝ます」
「やだやだ、飛雄、待ちなって」
「……なんすか」

 

 立ち上がる後輩を追いかけて腕をつかむと、彼はやはりおっとりと振り返り、及川を見つめた。ボディソープの香りが漂う。ゆったりとしたパーカーにシワをつくるほど鍛え上げられ、肉感的な印象を与える上半身が気にかかる。そのわりにきゅっと締まった腰のくびれも。
 その言語以前のパンチ力は、グラマラスな女の子の胸元を無視できないのに似ている。

 

「俺とそんなに気まずい?」
「気まずくなくはないです」
「じゃあバレー以外の話ならいい?」
「……バレー以外話すことないっす」
「なくはないでしょ。ほら、……えー、ほら、あー……飛雄彼女とかできた?」
「……いつも思うんですけど。それバレーと関係ないですよね」
「プレーが変わる人もいないわけじゃないだろうけど。基本的には関係ないよね。てかお前インタビューとかそういうスタンスなわけ? 面倒くさがられるよ」
「及川さんはどう答えてるんですか?」
「事実を答えてるよ。誠実にね。ま、はるばる地球の裏側までやって来る日本のメディアは、ちゃんとバレーの話聞きに来てくれることがほとんどだからギブアンドテイクってやつ?」
「へえ……すげーな」
「お前もいちいち突っかかるのやめな?」
「俺、『いない』って答えますよ」
「ん?」

 

 影山は及川に相対し、目を細めてほんの少し肩をすくめた。

 

「カノジョはいないです。バレーのこと以外考える余裕ないし、忙しいって」
「お前っぽいね、それ」
「女の人と話すのは苦手とか。チームメイトと話してるほうが楽しい、とか」
「待って、ちょっと、え、そう?」
「そうらしいです」
「らしいって何?」
「ちょっと『盛って』ます。やっぱり、及川さんとかだとばれるのか」
「お前がフェミニストのジェントルマンだとは思ってないけど、女の子苦手ってイメージはないし……ていうか、お前はもっと大きく、人間が苦手でしょ」
「悪口ですよそれ」
「つまりサービストークしてるってこと?」
「まあ、悪い言い方するとそうですね」
「お前に彼女がいてほしくないって思ってる女子が数多いることを自覚してるわけ!? 生意気にも!?」
「……らしいんで」

 

 目の前に立つ後輩が、あの憎らしいほどのバレー馬鹿の少年が、突然いっぱしの美男子の品格をまとって及川を見つめてくる。目尻のふちの紅を引いたような赤みが目につき唾をのむ。いつの間にこんな、反論するのも面倒になるくらい、疑いようのない美青年になっていたのだろう。

 

「何が理由でも、試合に来てくれる人が増えたらうれしいです。俺のプレーでも、顔でも、それはただのきっかけだから」
「適応しちゃってまあ……」
「……でも聞いたんです、カノジョいるとイケメンとか意味ないことあるって。実際いないし、嘘ついてるわけじゃないんですけど……」
「で、『女の人苦手』が出てくるわけか」
「はい。及川さん、ちゃらちゃらしてるとファン減りますよ」
「はいいィ!? チャラチャラとかしてませんけど!?」
「高校のとき、猛が別れるとか別れないとか言ってたし……」
「違いますぅー、俺は振られただけですう! ……おい何思い出させてくれてんの? ていうか飛雄さあ」
「なんですか」
「それはつまり俺がイケメンと言ってるも同然ですが? はいバーカバーカ」
「……言ってるし、思ってますよ」
「……うん?」
「かっこいいと思います。前よりよけい、かっこよくなりました」
「……ヤバお前。そういう……サービストークもお勉強したわけ?」
「いえ。……でも、いいと思ったことは人に言えって言われて、実践してます」
「えぐー……」

 

 はあ、と口元を覆ってため息を漏らす。俺に言われてもしょうがないでしょうけど、と影山は付け加えたが、意外とそうでもないのだ、残念ながら。褒められると気分が上向くし、相手への印象がよくなるのはホモサピエンスの生理なのだから。

 

「ねえ、いいこと教えてあげよっか。お前、もしお前が男と付き合えるヤツだって思われたら、多分ファン増えるよ」
「……でしょうね」
「そんなことも教えてもらったの?」
「いや。男の人と付き合ってるんじゃないか、みたいなこと俺よく言われてるらしいんですけど、それはあんま問題ねえみたいで。……っていうか、なんか喜ばれてるフシがあって」
「お前そんな噂立ってんの!?」
「ハイ」
「典型的な……」
「典型的?」
「女子人気大爆発状態ってわけね……」
「どういう仕組みなんスか、それ」
「要するに、徹底的な女性性の排除でしょ、多分。本気で迎合する気ならあと10年は結婚できないよ」
「……まあいいですけど」
「本気? ……てかお前と噂になるほうも被害者でしょカワイソ。誰?」
「いろいろあるみたいですけど、たぶん多いのは牛島さん」
「うーわ……なるほどね。そうか、そうなるんだ。ずっと一緒だったもんね。ウシワカちゃんなら同情湧かない、よかった」
「あと侑さん」
「セッターの? あの鼻につくイケメン? うっそ、お前とバチバチなんじゃないの?」
「いえ……ライバル以前に仲間なんで。全然頼ってますし、普通です」
「ふうーん……。まあいいやそこらへんなら。心置きなく醜聞振り撒きなよ」
「シュウブンってなんスか?」
「はいバカ一丁。……ねえ。噂の中にホントの彼氏が紛れ込んだりしてないよね?」
「……及川さんって」
「何?」
「いや、いいです」
「よくないですけど!? こら、言いな!」

 

 リビングを離れ、小上がりになったベッドスペースへと足を運ぶ影山を追いかける。ベッドはツインで、片方に影山のものらしきカーディガンが放り出されていた。組子のヘッドボードが間接照明に照らされるどこまでも上品な空間で、言い争いのあまりの不似合いさに声のトーンがしぼんでいく。

 

「俺本当に寝るんで。あと一人でどうぞ」
「付き合い悪すぎない!? 一応及川大先輩は地球の裏側から来たんですケド」
「別に、頼んでねえし。文句言いながら飲んで、後味悪く帰ってほしいです」
「え何なのお前!? 待ちなよ、ねえ!」

 

 両肩をつかんで顔を覗き込む及川に、影山は唇を尖らせて目を逸らす。脚にベッドのへりがぶつかって、互いに脱力するように立ち竦んだ。

 

「お前今日性格悪くない?」
「もともといいと思われてねえ自信があります」
「思ってないけど、輪をかけてだよ。お前は及川先輩にもうちょっと弱いはずです」
「夜いきなり押しかけてきて、ワイン開けて、付き合えとか言われても困ります」
「ごめんって。常識人じゃんお前、勘弁して」
「これでわだかまり消えて、及川さんがすっきりして帰るの嫌です。及川さんにとってほかの選手と同じになるくらいなら、嫌われたままでいい。ムカついたまま帰ってください」
「……あん?」
「もやもやしててください。俺を乗り越えるの、やめてください」
「飛雄、お前……」
「なんですか」
「俺に構ってほしいの?」
「……いや、別に、そんなことないです」
「それってつまり、お前にとって俺はほかの選手と同じじゃないって意味だと受け取るけど、合ってるよね」
「それは……そうだろ」
「あ、ふぅん? なるほどねえ」
「っていうか」

 

 両肩を掴んだ腕の中で、影山に両手で襟元をつかみ返される。

 

「及川さんこそ何なんですか。どういうつもりで聞いてるんですか?」
「な、何を?」
「噂になった中に、か……付き合ってる人が紛れてんじゃねーかって」
「う……だってお前が危なっかしいんだもん。だから勢いっていうか、本気で言ってるわけじゃ……」
「紛れてます」
「……は?」
「ほんとに、しゃれになんない人」
「嘘でしょ?」
「気持ち悪いですか? でもほんとです。ざまーみろ。気持ち悪いなって思いながら帰ってください。俺を消化すんな、一生」
「待って、お前、ほんとに男と付き合ってるの?」
「……付き合ってたら、どうですか?」
「なんだろう……」
「なんですか」
「……げ」
「げ?」
「ゲロ吐くほど不快……」
「へー。」
「誰ソイツ、相手」
「カノジョだったらよかったですか?」
「ん全然嫌」
「それは及川さんが意味分かんないでしょ」
「うわたまらなく嫌。別れたらどう」
「……嘘です。付き合ってはない」
「はいい!?」
「でも、大っぴらに言えねえ関係はある。それだけ」
「……待って。むしろ彼氏のほうがマシまであるんじゃないの」
「まあ……そう言う人もいるけど」
「うわ。うわー、やだ。やだやだやだ」
「どういう『嫌』かは、説明してくれないんですか?」

 

 う、と声が漏れそうだった。
 なんだその下手くそな駆け引きもどきは。大したことを言っているわけではないのに、いかんせん顔がよく、この距離で迫られると気勢をそがれてしまう。そりゃあ色恋の一つもあるだろう。交際関係になくても、ワンチャンどうですか、という輩がいたって不思議じゃない。

 

「顔近いよ」
「近いっすね」
「そうやって隙見せるから言い寄られるんじゃないの?」
「隙とか、別に……ん」

 

 目の前の唇にそっと唇を押しつけると、影山は重なる一瞬目を閉じて、及川が唇を離すタイミングを分かり切っているみたいにゆっくりとまぶたを上げた。

 

「なんでするんスか……」
「するでしょ今のは」
「しねえって」
「……ねえ飛雄、お前、そっか。秘密があんのね、お前の人生には」
「はい」
「……そっか。それでか」
「何がですか?」
「お前、美人になったから」

 

 一度、二度、影山が瞬きを繰り返す。襟から手を離し、指先でそっと唇を撫でたあと、逸らした視線を及川に戻した。

 

「……売られた喧嘩、買っていいですか。及川さん、すげーかっこよくなりましたね。日焼けしてんの、好きです」
「言うねえ?」

 

 試合後のハグのように色気のない仕草で目の前の体を抱き締めて、「うえしたどっち」と品のないことを口にしてみる。

 

「選べってことですか?」
「いや、普段どうしてんの」
「聞かないでください」
「プライドの高い日本最強セッターの影山選手には悪いけど、抱かれていただいても?」
「世界最強のつもりですけど、いいっすよ」
「ちゃんと生意気」

 

 今から抱かれるのにねえ、と言いながら口づけると影山は眉を顰めて、「でも顔が好みなんだよな」と苦々しく漏らしながら及川の唇を受け止めた。

 


**

 

 ベッドから起き上がった影山は洗面所で顔を洗い、及川がコーヒーを淹れるリビングへとやって来た。
 目の前に鏡があっただろうに、乱れた髪を整えようという意欲は湧かなかったらしい。噂のイケメン売りも、「売っている」というより「売られている」と世間に解釈されているのはこういう隙があるせいだろう。それで「飾らないイケメン」として男人気まで獲得しているのだからずるいとしか言いようがない。

 

「ご気分は?」
「最悪っす」
「俺は悪くないけど、飛雄は悪いんだぁ、へえ」
「……及川さんが後悔してないことにびびってます」
「俺はそもそも大して酔ってなかったもん」
「俺っすよ。本当にいいんですか」
「その自問自答昨日やったから。ねえちょっと、そんな顔色されちゃ気分悪いんだけど」

 

 バルミューダを拝借して淹れたコーヒーを差し出してやると、影山は渋い顔のままマグカップを受け取った。

 

「及川さんがいいならいいのか……?」
「なんだよ」
「及川徹、食っちまった」
「食われてない食われてない、俺が影山飛雄を食いました!」
「そういう話じゃなくて……なんか世間に悪い」
「逆にお前以外誰なら世間が納得すると思ってんの?」

 

 影山は目を泳がせて、「ときどき中継で映る現地のファンの人みたいな」とたどたどしく説明した。

 

「ぼんきゅっぼーんのアルゼンチン美女?」
「なんかしょうがねーかってなるじゃないですか」
「お前の女心理解、微妙に正しいの面白いわ」
「微妙ってなんだよ」
「お前さあ、もっと自分に自信持ってよ」
「はい?」
「俺が飛雄と付き合ってんなら、それはそれで結構アリなのが世間ってものなのよ。まあ度肝抜かれるだろうけど」
「分かんねえっす」

 

 はあ、と心底困り果てたように頭を抱えて影山がうつむく。そのうなじに、昨晩自分がつけた赤いキスマークを見つけて及川は「ふふん」と機嫌をよくした。

 

「飛雄、それ飲んだらモーニング食べに行こう。たしか1階にカフェあるでしょ」
「……そうっすね」
「手つないで、10メートルごとにキスしながらさ」
「今の、さすがに思ってもないこと言ったでしょ」
「言ったね」
「付き合わないですよ。及川さんと俺は、そういうの向いてない」
「まあ……一理ある」

 

 ワイシャツをひっかけ、スマホを持って戸口へと向かう影山を、及川は追いかけた。
 ドアの前で立ち止まった影山が、ドアノブを自分の背に隠すようにして、及川を振り返った。

 

「……及川さんに特別な人ができるまで。今まで話せなかったこととか、できなかったこと、少しだけ取り返してもいいですか」

 

 目を閉じ、たまらずううんと声を漏らす。

 

「いいよ。特別な人ができるまで、できて別れたあと、それから次の出会いがあるまで、もしくは」
「多い」
「もしくは特別な相手がお前だった場合は永遠に、いいよ」
「……ねえのに」

 

 呆れたように肩を竦め、それでもずいぶん柔らかく微笑んで、影山はドアノブに手をかけた。
 その背中を追って、及川もホテルの部屋を出る。
 胸が詰まって息苦しかった。もっと甘ったるい約束をしてやりたくなって、でもそれは、確かに俺が自分自身の選択によって選び取らなかった未来だよな、と思った。