intermission II

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原作軸、後輩×影(鳴影)

・21年3月、鳴砂青(21)×影山くん(24)
・鳴砂くんとは、画集の「代表選手一覧」にて登場した影山くんの3つ下のセッターです。そのプロフ欄を除いて情報がなく、大いに捏造を含みます。
・鳴砂くんの顔とプロフから最大の情報をくみ取ろうとあがいた末の産物

 


 

 日向先輩が身振りを交えてトスのリクエストについて語るのを、僕は勤勉に、ノートに書きつけている。日に焼けた肌が目の前に繰り出され、ボールを模したスマホと、乾いた音を立ててぶつかる。
 こう来るとすごくいい。あと、こうとかね。これもトスとしてはすげーいいんだけど、俺は身長の分、最高到達点に届くのに時間がかかるだろ。だからこの角度で打ってるときっていうのは、ブロックがこの辺りにあることになるんだよな。
 日向先輩の腕にはアップルウォッチが巻かれていて、日焼けの稜線の浮き出るその手首が、僕にはひどく大人っぽく見えていた。旅先の海の家で出会う見知らぬライフセーバー、のような安心感だ。たとえば身長のビハインドの語り口にも、自分の人生の障壁を知り尽くし、ひとつの特徴にまで昇華し終えた人のゆとりがある。

 

「鳴砂どう? 分かる?」
「OKです。要領はつかめたので、明日の練習で実践してみます」
「うん、頼む。鳴砂青年、学ぶねぇ。もともと座学とか得意なタイプ?」
「嫌いじゃないですけど、コレは焦りが出てるだけですよ。オリンピックまで時間がないから」
「そっかぁ。俺も気引き締まっちゃうな」
「この夏出たいなら、日向先輩とのコンビネーション上げないと」
「おお、だな! まあ俺もどうなるか分からんけども」
「いや日向さんですよ。大きな声では言えないですけど」
「おはは、まじ? 光栄ですわね」
「ちなみにこれ、オポ全員に言ってるんで安心してください」
「んんん、好青年な見た目に反し、いい性格である。安心です」

 

 演技がかった仕草で日向先輩が胸元を押さえ、うめいてみせる。今この天照JAPANにおいて最も選出歴の浅いセッターは僕で、プレースタイルも性格も、まだ周囲に理解されているとは言い難い。――という前提をもとにしたプロレスを、実のところやっている。僕がどういう人間かなんて早々、この人をはじめとしたチームメイトたちには慧眼によって見抜かれていて、僕もそのことを分かったうえで少しずつ自分を開示するふりをしている。心はどうあれ、頭では気付いている。東京オリンピックに僕が出ることはない。何か事故が起きないかぎりは僕の席はそこにないだろう。
 だから長期戦の構えだ、僕は遠回りに慣れているので大丈夫。今はまだよそ者だけど、4年後もっと俺と居心地よくなって、一緒にオリンピックに出ませんかというスタンスなのだ。

 

「青」

 

 声が、カフェテリアの丸い天井をつるりとすべって頭上に落ちてきたかのようだった。
 きゅ、と靴底を鳴らしながら、気配が近づいてくる。日向先輩が表情を変えずに手を挙げ、圧縮されたあいさつをするのを横目に、僕は声の主を振り返った。

 

「影山先輩」

 

 肌の白い人だなと、なぜかそのとき思った。ひだまりのオレンジの中にLED灯がさし込むように、シャワー上がりだろう影山先輩の頬は白々としていた。

 

「お前これ見た?」

 

 DVDを差し出され、受け取る。日向先輩は何もしゃべらない。

 

「あ、紅白戦ですか? 見てないです」
「ん。」
「ありがとうございます」

 

 影山先輩はそのままカフェテリアを突っ切り向かいのエントランスのほうへ歩いて行ってしまう。
 彼は寡黙な人だが、日向先輩と時折しょうもない話もしているし、僕とも多少雑談をする。僕と日向先輩が一緒にいたから、今日は用件だけで済ませてしまったのだと思った。
 僕がセッターで日向さんがオポジットだから、僕らの密談に配慮したんでしょうか。影山先輩はそういう人でしょうか、日向先輩はどう思いますか。

 

「珍しいよなあ」

 

 まるで内心の問いに返事を寄越すような間で、日向先輩は言った。

 

「何がですか?」
「影山が名前、呼び捨てにするの」
「あ……そうですか?」
「ほかにいない気がする。名字呼びだもん大体。鳴砂も最初そうじゃなかった?」
「2週間くらいだけかな。それからずっと名前です」
「そうなんだ。てか『青』ってかっこよくね? 由来とかあるの?」
「海の青だって親は言ってました」
「へえー、ロマンチック!」

 

 影山先輩が僕を「青」と呼ぶのは、1つには、名字より2文字少ないから、効率がいいのだと思う。「なきすな」は音の連なりとしてちょっと言いにくいというのも分かる。
 それから、もう1つは。
 これは僕の妄想だが、影山先輩が彼なりに僕に歩み寄ろうとした表現の形なのだと思っている。身の上話をしたあと彼は自然に呼び方を変えて、僕はそれがひどく嬉しかった。

 ――青。

 呼びかけるとき、影山飛雄は僕のことを思っている。
 みぞおちから全身へ蜂蜜より甘い液体が駆け巡っていくような幸福を感じる。
 この名前に生まれてよかった。あなたがそんな声で呼びかけてくれる名でよかった。
 今にも体の外に漏れ出て、特定の名称を与えられてしまいそうな思いを、僕はまだなんとかやりくりして、胸の奥へと押しやっている。今こそ得意の遠回りだ。



 僕が遠回りを得手とするのにはわけがある。2021年3月現在、僕は大学2年生だが、本当なら今ごろ3年生を終えるはずの年齢だ。小学生のときに大きな手術をして小学3年生を2度やり、1つ学年が遅れて今に至る。運よく僕はその後病気に苦しめられることなく、中学、高校とバレーを続け、大学にもスポーツ推薦で入ることができた。
 ただ、ユースやジュニアといったアンダーカテゴリーは出生日を基準としてチームを仕分ける制度なので、実年齢と学年のずれの影響を多少なれ受け、僕は大学に入るまで代表経験がなかった。
 少し遠回りをしているだけ。僕はそう信じてチームで研鑽を積んだ。ぽつんと寂しい病室で、窓を見上げて過ごした9歳の自分の我慢強さを思えば、大人になった僕にできない回り道などこの世にほとんどなかった。
 そういう生い立ちを僕は出会って2週間の影山先輩に洗いざらい話した。代表チームでもじっくり時間をかける覚悟がある、トッププレイヤーであるあなたと同じチームにいられることが嬉しい、近くで勉強させてほしい、と伝えた。影山先輩は「分かった」と静かに言い、表情一つ変えることなく、ただ呼び名だけを変えた。

 

「青」

 

 ノックの音に顔を上げれば、合宿所の僕の部屋のドアの隙間から、映画『シャイニング』の名場面みたいに影山先輩が顔を出していた。読んでいた雑誌を太ももの上で閉じ、僕は背筋を伸ばした。

 

「お疲れさまです」
「……あー。散歩行くけど」
「あ、行く、ちょっと待ってください!」
「待つ。」

 

 僕は手早くジャージをトレーナーの上に羽織り、スリッパをスニーカーに履き替えた。
 チームではこの合宿期間、ゆるやかに「散歩隊」が結成されていて、合宿所周辺の田舎道をぷらぷら歩いて、健康増進と気晴らしに努めている。活動時間帯は朝食後か、夕食前のこの時間で、僕も時折参加している。影山先輩は常連というわけではないが、たまに断りそびれたみたいにその輪にいて、先日僕が参加できなかった海辺を目指す回にも参加していた。その道程にあった古めかしい自動販売機のレモネードが意味不明なくらいに美味しかったとみんな口をそろえていて、それを羨ましがった僕に、影山先輩が「今度な」と言った。それを果たしに来てくれたらしい、すごく律義な人だと思う。

 

「ほかの方は」
「いねー。どうする」
「行きます!」
「おう」

 

 口には出さなかったけれど、二人きりなのは朗報だった。半歩先を行く、僕より4センチ背の低い先輩のつむじを見下ろしながら、僕は笑みを噛み殺した。
 日向先輩が「陽」を象徴する人で、頼もしさの塊のようだとするならば、影山先輩はその真逆を行く人だった。テレビでは不遜にも近い堂々としたプレーが取りざたされてばかりだったので、最初のころ、影山先輩にどことなく危うさを感じた自分にびっくりしたものだった。当時は気のせいだろうかとも思ったが、付き合いを重ねるごとに、その影山先輩像がさして的外れではないことを僕は理解していった。
 影山先輩は間違いなくチームの中心人物で、ゆえに彼の周りには人の影が常にあったが、影山先輩にはその体を覆うひんやりと冷たい空気の層のようなものがある。
 空気の揺らぎのない冬、空に浮かぶ星座がよく見えるみたいに、くっきりと澄んだ存在感を頼りに僕はどこからでも影山先輩を見つけることができた。
 まるで作画違いの登場人物のよう。この人は世界に居心地よく生きているだろうかと勝手な心配を抱く。いや、心配というと少し違うだろうか。僕はなにも影山先輩を救いたいわけではないのだ。

 

「あ、自販機」

 

 宿泊棟を出て歩くこと10分ほど、想像していたよりずっと早く、防波堤の向こうに海が見え始めた。しばらく行くとそれが途切れていて、海辺まで降りられることが遠目に分かる。
 そちらへ進む前に、ざりざりと靴裏に食い込むような粗いアスファルトの上、車の通る気配のまるでない車道を斜めに渡った。茶色く錆びた元白色の自販機が、人気のない民家の前に佇んでいた。
 商品サンプルの並ぶ陳列窓がことさらに煤けていて、どれがレモネードだか分からず僕は顔をしかめる。すると、眉をひそめて覗き込む僕の脇からすっと手が伸びて、百円玉を2枚、投入口へと押し込んだ。きれいな指が2度ボタンを押し、僕は慌てて受け取り口の前にかがむ。

 

「……あの、お金」

 

 僕の隣に影山先輩が腰を落とし、僕の手からレモネードの瓶を1本受け取る。白い頬がすぐそばにあり、どきりとする。

 

「おごり。」
「あざっす!」
「100円の声量じゃねえよ」

 

 フタを外した瓶を手に立ち上がり、影山先輩が海のほうへと再び足を向ける。傾きかけた太陽と、海と、波音と。飾り気のないジャージをまとった彼が歩く夕景がひどく絵になって、僕はスマートフォンを部屋に置いてきたことを後悔しながら、その姿に見入った。
 しばらく歩いて、その足が止まる。黒髪を海風に揺らしながら、彼が僕を振り返った。

 

「あお」

 

 そう呼んでもらえることを期待して僕は出遅れた気がする。

 

「置いてくぞ」
「……待って」

 

 自分の足音がタン、と響いた。路側帯のそばまで僕がやって来るのを待って、影山先輩は階段を下り、砂浜へ足を踏み入れた。

 

「こんなに近かったんですね」

 

 影山先輩は何も言わず、僕を振り返って、それから海を横目に砂浜を歩いた。
 彼の背中からレモンの匂いがする。
 トパーズ色の香気、だなんて、どこかで見た文学的な表現が頭に思い浮かんだ。
 フタを開けそびれた自分の瓶をジャージのポケットに仕舞って、匂いをたどるように砂を踏み、影山先輩との距離を縮めた。

 

「影山先輩、海好きですか」
「……好きとか嫌いとかねえよ」
「そうですか。まあ、そうか」
「――宮城の」
「はい」
「実家に住んでたころ。は、周り山しかなかったし、物珍しい感じはする」
「そっか、内陸のほうでしたよね」
「おう。……俺言ったか?」
「高2のときの春高の事前番組で言ってましたよ」
「お前……」
「いやいや見るでしょ、事前番組。たまたまそこに影山先輩が」
「……そうかよ」
「ふう、危なかった」

 

 もう10テイクくらいやっているやり取りをまた繰り返して、あいまいな空気が流れる。僕ファンとかじゃないですから、ライバル目指してますから。おごってもらったのが嬉しくてレモネードの瓶開けられなかったとかじゃないですから。

 

「お前は?」
「はい?」
「海。家、近かったの」
「うちはもう、ほんとに海っぺりです。両親がサーフィン好きで、海の見える家がいいって」
「ふうん」
「先輩、鳴き砂って知ってます?」
「……おまえ?」
「僕……いや、そうじゃなくて」

 

 影山先輩が、瞳の中に僕と入り日を映して、波音の中立ち止まる。

 

「砂浜を裸足で歩くと、きゅっきゅって音が鳴るんです。石英の砂がこすれて、動物の鳴き声みたいな……影山先輩!?」

 

 飲みさしの瓶を胸元に押しつけられたかと思えば、先輩はすっとかがみこんで、次の瞬間には裸足で砂浜に降り立っていた。

 

「せ、先輩!!」
「鳴らねえな」

 

 2歩、3歩、軽い足取りで先輩は砂浜を歩く。
 慌てて追いかけ、腕をつかむと、影山先輩はその場で足踏みし、「鳴らねえ」と再び不満げな表情をつくった。

 

「……どこでもいいわけじゃないですよ! 音の鳴る特別な砂浜があって、観光名所になってるくらいなんですから」
「早く言えよ」
「ここでやるとか思いませんよ。ガラスでも埋まってたらどうするんですか!」
「ちゃんと見てた。」
「なんスかその自信……」
「どうすんだ足これ」
「軽率に脱ぐから……。あ、あそこ、足洗い場ありますよ」
「行くか」
「待って待って!」

 

 夏の海水浴客向けだろう、小さな石造りの洗い場を見つけたのを教えたはいいが、影山先輩がそのまま歩いていこうとするので焦って引き留める。

 

「裸足じゃ怪我しますって」
「靴履きたくない」
「……はい。これ持ってください」
「……エ?」
「どーぞ」

 

 裸足の先輩の前で、僕はひざをついた。背中を向け、促すように背後に腕を広げる。

 

「……あ?」
「おんぶして連れて行きます」
「無理だろ」
「無理じゃないですよ、アスリートなめてませんか?」
「なめてねえけど俺は重い。お前より絶対重い」
「80そこそこでしょう。いけますよ、全然」
「……」

 

 かがんで手を広げ続けていると、いっこうに返事がない。すると、視界に色白な足が現れて、僕の右斜め前に影山先輩が腰を落とした。

 

「悪かった」

 

 レモネードを飲みながら、反省しているというより、どこか気勢の途切れたような面持ちで、影山先輩が言う。

 

「普通に履いて帰る。大丈夫」
「いや、すぐそこですよ。おぶって連れて行きますよ」
「腰痛める」
「痛めないと思うけど」
「青が腰痛めたら困る」
「……まじ」
「まじって何が?」
「現実かなあって。……あっという間にチームメイトで、嘘みたいだ」
「お前くらい上手けりゃ、遅かれ早かれ代表には選ばれるだろ」
「ざっす……」

 

 腰を上げて肩を貸し、目の前で、砂で汚れた素足の上に靴下を履く姿を見守る。
 両手を使えるよう手を伸ばして体を支えると、先輩は大人しく僕に体重をあずけ、何かの神話の重大なワンシーンのように丁寧な仕草で、靴下と靴を履いた。

 

「帰るか」
「はい」
「お前、レモネード飲んでなくね」
「バレたか」
「嫌いなの」
「いや、かなり好きです」
「は……?」
「大事に飲みます。しばらく飾ったあと」
「……へんなやつ」

 

 太陽が水平線の向こうへ、吸い込まれるように沈んでいく。
 オレンジのヴェールを脱ぎ去るように、夕焼けに隠れていた青色の瞳が顔を出すのを、僕はどこか息苦しく、愛おしく、僕の心に焼きつける。影山飛雄の、この瞳が僕を見る。その一つきりの事実があるかぎり、僕は何十年だって遠回りができるだろう。

 

「青、行くぞ」
「……はい」

 

 日の暮れる春の海をあとにして、影山先輩が歩いていく。
 足にまとわりついた砂が気持ち悪いのだろうか、すこし不自然に体を傾けて歩く後ろ姿さえ、やっぱり僕の目にはくっきりと澄んで見えるのだった。