intermission II

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原作軸(牛影)

・2015年12月





 意外だと言う人がいるかもしれないが、実のところ恋愛は自由である。
 アドラーズでも日本代表でも、「恋人をつくるな」と言われたことはないし、もっと驚かれるかもしれない話をすると、「恋人の存在を明かしてはならない」とも、実は、言われたことがない。他競技の事情には明るくないから、アスリートの一般論は分からないが、少なくとも牛島と牛島の周りのバレーボール選手たちを取り巻く環境は、それで統一されているようだった。
 アドラーズに入団する前、内々定が出るか出ないかの時期に、生活環境調査の一環でチームのフロント社員から「彼女とかいるの?」と聞かれたことはある。まさかいないだろうなと脅かすような調子ではなく、むしろ「そういう面白い話ないの?」とでも言いたげな口ぶりで、「いいえ」と答えると「なんだ」と肩を落とされた。いたほうがいいのだろうか、浮いた話がなくて申し訳ないな、とまで思った。
 やがてVリーガーとしてデビューし、キャリアを重ねていくうちに、牛島の置かれた環境は少しずつ変化していった。噂に聞く「黄色い声」というものを自分がかけられていることを認識するようになって、そこで少し、疑問を抱くようになった。牛島の恋人に名乗りを上げるかのような熱烈なラブコールを送ってくる一部の女性たちは、牛島が彼女なるものをつくり、SNSにツーショット写真でも公開しようものなら、どのような反応を見せるのだろう。女性の感情の機微への知見が浅い自覚がある牛島ではあるが、目を閉じると、日ごろサイン列に並んでいる女性たちが血を吐いてばったばったと倒れていく姿がまなうらに浮かんだ。絶対そうとは言わないが、たぶん、恐らくだが、多大なショックを受ける人がいると思われる。たった今開封したファンレターに同封されていた婚姻届に目を落とし、牛島は顔も知らぬファンの未来を憂えた。

 恋人はいますかと時折聞かれる。いませんと返す。牛島の返答は彼女たちを喜ばせるが、それは偶然に起きた需要と供給の合致であり、気の利いたサービスなんかではない。いつか仮に気が変わり、素敵な女性と恋仲になったとき、自分は彼女たちにどう答えるべきなのだろう。あるいは、どう答えたいと思うのだろう。会社もバレー協会も牛島の人権に誠実で、だめとは言わないし言ってくれない。ファンとの接し方は自分で選ばなければいけない。

 そんな杞憂を、そう、ふたを開けてみれば杞憂だったその葛藤を燻ぶらせていた社会人3年目の春先のこと、あの影山飛雄がVリーグの中でわざわざ牛島と同じチームを選んで入ってきた。チームで息をつく間もなく、あっという間に日本代表に招聘され海外を飛び回ることになった彼の世話を少しばかり焼き、彼といる時間を少しばかり心安く感じて、数か月ののちようやく自分のチームに帰ってくると、思わぬ状況が牛島を待っていた。
 自分はなにか、新しいファン層をつかんだらしい。「彼女いますか」、と問いかけられていたのと同じか、それ以上の熱っぽさで、「飛雄くんとは仲がいいんですか」と聞かれるようになった。もちろん質問はそればかりではない、「この前の雑誌のインタビュー、飛雄くんと答え全く一緒でしたね」とか、「おとといの野球観戦って飛雄くんと行ったんですか?」とか「牛島さんが誰かとずっと一緒にいるのは珍しいですね」とか、いくらかバリエーションが存在するが、要するに、影山飛雄とどういう仲か、と問われることが増えた。
 牛島は困った。確かにその野球観戦は影山と二人で行ったし、昨晩急に思い立ち、ナンカレーの店に一緒に出かけた相手も影山だが、牛島が認めると、影山のプライベートまで勝手に明かしてしまうことになる。それはいかがなものかと思うし、だからといって嘘をつくのもおかしい気がする。牛島はしょうがなく、そうした質問には「秘密です」と答えることにした。するといつのころからか、「秘密です」という答えがむしろ、何かの特別を暗示しているとの仮説を与えられ、ファンにひどく喜ばれるようになった。ここまでのまとめとして、つまり、牛島若利が影山飛雄と親しいことは一部の人を激しく喜ばせるようである。正確な理由は分からないが、牛島の人生から「特定の女性と親しくする」を控除した領域に、「特定の男性と親しくする」が含まれることは確かであるので、そのようなメカニズムなのではないか、と推察した。


 さて、今目の前には黒く艶めく丸い頭があり、牛島は自分のいたずら心と闘っている。白いユニフォームに包まれた均整の取れた体の主は、どうせ後ろに立つのが牛島と思って気を抜いているに違いない。
 たとえば背後から腕を回して、いきなり影山のことを抱き締めたら、どんな騒ぎになるのだろうかと妄想する。仲のいいチームメイトどうしの悪ふざけととられるか、牛島乱心と驚かれるだろうか。影山にどんな反応をされるかは、あまり不安でなかった。影山が本気で怒るとは考えにくいし、嫌われることもないだろう。
 影山飛雄は、たとえて言うなら、牛島若利が突然世界中に嫌われるようなことが仮にあったとして、最後の最後まで「どうすればいいと思う?」と牛島が尋ねる相手、という気がする。何でもない顔で、牛島の手の届く場所にいる。理不尽やたくらみから一番遠いのが影山だ。自分に似て鈍感だから、質問に対する答えは、きっと「分からない」なのだろうけれど。
 分からないです。それから、バレーしませんか、というようなことを言う。
 いかにも影山のたどり着きそうな思考停止だなと自分の想像に笑っていると、サインを終えた影山が数歩歩いて、急に足を止めたので、牛島はその背中とぶつかった。影山を突き飛ばさないよう、とっさに胸元に手を回して支え、腕の中の影山を見下ろす。
 飛雄くんのこと好きですか?
 誰かに聞かれたような、あるいは、みなもの石をよけて川が流れていくように、それだけは聞かれてこなかったような気のする質問が頭をよぎった。
 牛島は「秘密です」のカードを手札に持ったまま、考える。
 教えましょうか。
 腕の中の影山の体を抱き締めて、俺すら知らない答えを知りましょうか。
 でもそれは結構ずるいのだ、なぜなら、牛島と違い何の覚悟も用意していない影山の答えを勝手に明かしてしまうことになるからだ。

 自分を逃がす気配のない太い腕をいぶかしんで、白い顔がこちらを振り返る。
 牛島がこうして腕に支え、このまま抱き締めてしまってもいいと思う相手が、「牛島と特別な関係であれ」と世間が期待する相手と一致しているのは、偶然のようで、実はそうでもないのだと思う。見抜かれているのだ。牛島すら知らない何かの本質をきっと。
 なんですかこれ、と言いたげに牛島を見上げる影山に、答えの代わりに微笑むと、「え?」としかめっつらを返された。不愉快の表現というより、焦点の合わない遠くの景色を、目を細めて確かめるみたいだった。
 いたずら心に今にも負けそうな牛島と、困惑100の影山の無言の攻防を、ナイロンの仕切りフェンスの向こうで、ファンたちが見守っている。
 彼女らいわく俺たちはだいぶお似合いで、控えめに言って、もう結婚したほうがいいというんだが、本当だろうか。影山、お前はどう思う?