intermission II

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原作軸(クロ影)

・2018年3月くらい


 

 

 自分で言うのも何だが、俺は俺を、世の平均程度には良識的な人間だと信じていた。
 つまずいて転んでいる人があれば、大丈夫ですかと助け起こすし、悲しいと泣く人があれば、どうしたんだとハンカチを貸すだろう(持っていればだが)。気心の知れた相手との対等な丁々発止を除いては、「ざまあみろ」などという感慨とは日頃、縁遠い。
 だから、自分で自分に驚いてしまった。

「……いるんスけど、上手くいってないです」

 省略された主語は「恋人」だ。そしてこの発言の主は影山飛雄。
 1か月ほど前に聞かされた、影山に恋人がいるという告白は、それ自体がまず大きな衝撃だった。
 だがそれ以上に、俺は自分が、「恋人と上手くいっていない」という影山の窮状に対し名状しがたい喜ばしさを感じていることに気付いて、動揺したのだった。
 どういうメカニズムなんだ、それ。俺、もしかして影山に嫉妬してたのか?



 10代のうちから日の丸を着け、オリンピックなど世界を舞台に大活躍。圧倒的なバレーの才能で21歳にして天照の正セッターに上り詰め、テレビにCMに雑誌にと引っ張りだこの彼は、今やその名を知らぬ者はいない。特に若い女性からの人気はすさまじいものがあり、隙のない容貌と少し天然気味の言動が、「控えめに見積もって銀河一尊い」――というのが世間の影山評である。
 なるほど。同世代の男として嫉妬要素満載であることは分かる。顔がいいとか背が高いとか高収入とか女子にモテるとか、そういう記号的ステータスを羨ましく思わない男は少数派だろう。
 しかし、その影山が恋人と別れそうになっていることを、まさか自分が「いいじゃん」と感ずるとは衝撃だ。「かわいそうに、なんとか持ち直す手助けをしてやりたいな」とか思うのが標準的な黒尾鉄朗ではないのかと自問した。それなりにノウハウあるだろ? 少なくとも影山よりは女子ウケのいい謝罪のしかた知ってるはずだろ。なあ。

 ――黒尾さん、あの券使いたいです。

 お、いいよん。
 影山に消沈した様子は見られず、平静な顔だった。しかし、俺の手首をぎゅっと握りながらの申し出だったので、俺はすべてを察して目を細めた。
 「あの券」とはちなみに、「黒尾先輩が気晴らしにドライブに連れていってあげちゃう券」のことだ。前回、遠征先で散歩がてらに話を聞いたとき発行した。別名、「影山の恋の顛末を黒尾が根掘り葉掘り聞き出す券」ともいう。寮在住の影山は夜、外出届けを出して俺の車に乗った。

 許可を得ているとはいえ、アドラーズの大事な箱入り息子を夜のドライブに連れ出すのも、ハンドルを握るのが協会の職員なのもなんだかいけないことのような気がして、俺は寮から少し離れた場所に車を止めた。軽い足取りで現れた影山は、助手席のドアを開けて俺の姿を見るやひとこと「ラフ」と漏らして口元を緩めた。そういえば、私服で影山に会うのは久しぶりのことだった。

「今日はプライベートな友人と会うもんで」
「うす。さーせん、忙しいのに」
「全然、運転久しぶりでテンション高め」

 口にしてから、「テンション高め」はまずいか、と少し反省する。1か月前、手首をつかまれたときから、今日の話の風向きなど分かり切っているのだ。
 影山がシートベルトを締めるのを確認し、俺はサイドブレーキを下ろした。

「お」
「はい?」
「影山からいい匂いした」

 アクセルを踏み込む。アドラーズ寮は郊外にあり、高速道路に上がるまで、しばし緑豊かな住宅街が続く。湿り気を帯びた木々の匂いにまじって、ボディーソープかシャンプーか、爽やかな香りが鼻先をくすぐっていく。

「風呂上がり?」
「あ、はい。少し前に」
「そーなんだ。女子受けよさそ、その匂い」
「どうなんっすかね。俺、姉がヘアメイクアーティスト? やってて」
「そうか。そうだった」
「いろいろもらうんで、言われるまま使ってます」
「へえ、さすがだ」
「気になりますか」
「ん? いや、俺も好きかな」
「……そうですか」

 影山の視線を頬に感じ、俺は口元をもぞりと動かした。変だ、少し。俺が全体的に。

「どうなった?」

 もう少し世間話を引っ張る予定だったのに、ETCゲートをくぐり、合流を終えたところで、俺は早速本題に切り込んでいた。

「黒尾さんにアドバイスしてもらったこと、試したんですけど……」

 何だっけそれ、と首を傾げてしまいそうになる。先月の俺はなんと、影山にアドバイスを与えていたらしい。ちゃんとしたこと言ったのかね俺、本当に記憶がない。

「だめでした。全然変わらなかったです」
「んー、そうかい。……別れたの?」
「直接会ってないんで、まだ……。でも次会うときが最後だと思います」
「まじ?」

 まただ。心臓がぎゅんとなった。気になっていたバンドのライブのチケットが当たったときみたいな、にわかに数か月先の予定が埋まって気持ちの充実するときのような感覚だ。不謹慎にもほどがある。

「あー、けど、そのわりにあんま落ち込んでる感じでもねえな」
「結構前から、そうなるんだろうなと思ってたから」
「そっか。なんか意外だわ」
「意外……ですか」
「影山って恋愛ごと疎そうだなって思ってたから。いざ付き合うってなると、デートすんのも手握るのも別れんのも、一大事件なのかなって」
「軽いわけじゃないですけど」
「うん」
「付き合ってる間、ずっと『付き合う』をやってる、って感じだったせいかも」
「なぞってる感じってこと? 『付き合うってこういうことするんでしょ』みたいな?」
「はい、そういうのです」

 ハンドルを握り、真正面を見つめたまま、俺は思案する。影山という男はもしかして、恋愛においてかなり流されやすい性分なのではないだろうか、という考えに至る。好きだと言われたから付き合って、求められたから応えているだけ。リードするタイプには見えないし、納得感があると言えばそうだ。

「……全部した?」
「え、ん?」

 影山は、鼻に抜けるような声を出して、語尾で少し笑ってみせた。

「……そうスね」
「そうなんだ、うお、ショック」

 驚いてちらりと隣に目をやれば、あなたの言いたいことを察しています、という顔で影山がじっとこちらを見つめていて、ぐらりと目眩をおぼえる。

「マジか」
「ショックすか」
「そりゃ……いやその。俺はさ、なにせ、影山が15のときから知ってんだぞ。背なんてこんくらいでさ」
「俺そんなクワガタみてぇなサイズしてないです」

 形だけ見れば、男どうしの恋バナ、ないし猥談だった。みんなの知らないところで、案外よろしくやってるじゃないかとからかって、笑い合って終わりの話だ。だけど、俺の目に映ったものはもっとずっと意味深だった。俺はその表情の意味を本当に知っているのか? 俺すら知らない危険な何かの味を覚えた青年の顔がそこにある気がして、目眩がいや増す。

「――どこの女子が影山を男にしちゃったの」
「……あ」
「ん?」
「やべ。……誤魔化すか?」
「口から出てますけども、いやいや、どうした。意地でも聞くぞ」
「いやでも、俺最初に言わなかったか? 言ったよな」
「言ってない言ってない」

 どうだろうか、実は言ったかもしれない。ここだけの話、俺は、前回結構気が動転していたし。

「……女の人じゃないって」
「……おん?」
「俺が付き合ってるの女の人じゃないです」
「……え、人類?」
「規模でっけ」
「男?」
「はい」
「人類の男子のほう?」
「そんな質問ねえだろ……ないでしょ」
「……サービスエリア寄るわ」
「なんでスか」
「運転誤りそう、超怖い」

 ちょうど近づいていたサービスエリアへの横道に入り、人気のない駐車場の端に車を止めた。深夜のサービスエリアは、こんなにもこの世の果てのような場所だっただろうかと、とっぷり沈んだ暗さに不安を覚える。
 シートベルトを外し隣を振り返ると、影山が少し迷うような目つきをしたあと、自らもシートベルトを外した。

「いっぱい質問あんだけど」
「はい」
「ごめん、オブラートなしで聞いていい?」
「答えます」

 互いの立場を考えれば、突き詰めるべきではない気がするし、せめて付け焼刃でも知識を蓄えたうえで、十分に配慮して話を聞くべき事柄だと思う。俺は今、そういう細やかなステップを「昔馴染みだから、見逃してくれ」と甘えて、許されたんだな、と思った。
 そう言えるほどに俺と影山の間に昔のよしみがあるかと問われると「どうだろうか」首を傾げるしかない。学生時代、けっして直接的な関わりの多い二人ではなかった。それでも、俺は影山を自分のかわいい後輩たちの一人として扱っていたし、影山というセッターを、烏野高校の心臓としてこの上なく警戒しゴミ捨て場の決戦に臨んだ。影山のほうはどうだか知らないが、この許容は、影山もまた同じ温度感でいることの証左のように感じてしまう。

「影山ってどう……女の子より男のほうが好きってこと?」
「……分からないです。たまたま付き合った相手が男でした」
「んなばかな。……んなバカな!?」
「ほんとです」
「おまえさ」

 手のひらで顔を拭い、俺は深く息をついた。

「黒尾さん?」
「……バレたらまずい」
「そうですよね。分かってます……すみません」
「謝んな。何も悪くない。あと多分俺はお前が思ってるのと違うこと考えてる」
「どういうことですか?」
「お前が男拒まないってのは、まずいと思う」

 影山は眉を寄せ、首を傾げる。まるでピンと来ていない様子だ。
 影山は知らないが、ファンの男性から協会あてに、琵琶法師も真っ青の夥しい文字数で慕情が綴られたはがきが毎日届いているし、上品に包装された箱が届いたかと思えば、中身は影山あての大人のおもちゃでした、なんてこともある。かなりある。
 彼を取り巻く人間たちには、今は影山がノンケで、男性との恋愛に興味がないという心理的ブレーキが多少なれ働いている。それがなくなってしまうことを考えると恐ろしい。ファンだけではなく、もっと近しい人間だって例外ではない。たとえば、ほら、いろいろあるよな、なあ。

「……相手聞きてぇ」
「付き合ってる人ですか」
「うん。俺そいつ知ってる?」
「はい。すげー知ってます」
「げ!? マジかよ……信じらんねえ。気になり過ぎるでしょ」
「秘密です」
「どうせ別れるんだろ? いいじゃん」

 なあ、と荒っぽく影山の髪をかき混ぜる。影山姉推薦のコンディショナーの効果か、手の甲をするすると滑る細い髪が心地いい。

「まだ」

 俺の手首を、影山の手が握った。

「別れてないから」

 手首をつかまれたままの指先が、影山の頬をたどるのを見逃しながら、影山が俺に向かって目を細める。

「別れてないから? 何?」
「ちょっと情あるんで」

 細めた瞳にきらりとヘッドライトがよぎる姿に、不意に胸が締めつけられた。
 ――フリーより、別れ際のほうが、魅力的に感じることがあるそうですね。
 あくまで一般論ですけど、と、以前旧友赤葦が優雅にミルクティーを傾けながら呟いた声が脳裏に蘇る。
 それじゃね? 俺。

「やばくね」
「何がですか」
「俺が」
「これすか」

 影山は顔をうつむけ、自分の太もものそばの座面につかれた男の手を見やった。いかにも俺の手だが、信じがたいことに、まるで影山を逃がすまいとするみたいに囲い込んでいる。

「影山」
「はい」
「いいこと考えたんだけど」
「いいこと?」
「今ここで電話かけて別れねえ?」

 影山のまぶたがぴくりと動いた。

「それ、どういうつもりで言ってますか?」

 影山が瞳に聡さを映す。
 オフの、食堂でぼうっと朝食を食べているときとか、バラエティー番組で珍答をフリップに書いているときとかとはまるで異質な、分別の色が瞳に宿っている。
 影山はふいと目を逸らし、懐から黙ってスマホを取り出した。暗闇の中、青白く頬を光らせながら、影山の指が通話アプリの連絡先をたどる。
 視線をスマホに向けたまま、影山は手を止め再び口を開いた。

「電話できます」
「うん」
「でも、その前に黒尾さんがなんでそんなこと言うのか知りたいです」

 俺の意図をきちんとくみ取った影山の喉が小さくこくんと鳴った。

「……俺には黒尾さんが、んっ」

 何が嫉妬だ。影山が恋人と上手くいっていないことを喜んでいたのは、俺の妬心ではなく下心のほうだ。
 唇を重ねると、影山は喉の奥で掠れた声を漏らし、肩をすくめた。俺の腕をつかみ背もたれへと身を引く影山を追いかけて、俺はぞくぞくと興奮しながら影山の唇を舐め取った。革張りのシートが軋み、くぐもった音を立てる。

「いいよ、教える」
「……いやまだ別れてねーんだって」
「誤差でしょ。すぐかけて、別れて、俺と付き合えよ」

 影山はぎゅうっと唇を結び、やがて深く息を吐いたあと、俺の肩から手を離し眉間を押さえた。

「黒尾さんが、俺の知ってる黒尾さんなら」
「いいの?」
「……いいです」
「お前の知ってる黒尾さんが、お前にキスするかは諸説あるよな」
「ありますね、すげーある」
「言っとくけど『「付き合う」をやってる』なんて言わせねーよ、俺は」
「……はい。あんま、言う気しないです」
「電話かけようぜ」

 影山は目を泳がせ、再びスマホの画面に触れた。多分にためらいながら、指先でリストをスクロールしていく。

「誰にかけんの。……え? うーわマジ!?」
「……声でけぇっす」
「とんでもねえ男落としてんなお前。あれ……わーあの人そっちなんだ」
「分からないです。俺と同じ感じかも」
「いやアッチは完全ゲイかバイでしょ。お前なんつー人に惚れられて、うわぁ、すげーこと知っちゃったんだけど」
「かけるんで。ちょっと黙っててください」
「ウィっす。食い下がられてもフってくれよな」
「大丈夫です」

 スピーカー越しの、曇った発信音を聞きながら、俺は影山の指先を絡め取る。
 世の平均程度には、何だっけ? 良識的? 我ながら、よくもそんなに思い上がれたものだと感心する。薬指の背を撫でると、影山がぴくりと肩を震わせて、いじらしくこちらをにらみつけてくるので、頰がゆるむ。
 影山、今日、外出届け出してたよな。

「もしもし。――影山です。あの……話があって」

 ああ、早くこの電話が終わってしまえばいいのに。