・2016年4月、牛影(付き合ってない)
顔の高さでスマートフォンを構えた牛島は、難しい顔をする。
「表情が硬いな」
本人とスマホの画面とを見比べ、牛島は「やはりな」とばかり頷いた。
「げ、そうスか?」
「もっと和やかに微笑んだほうがいい。新婚夫婦へのメッセージだぞ」
「笑ってるつもりだったんですけど、だめか」
季節は春、新社会人が真新しいスーツに身を包み、不安げな表情で電車に揺られる姿を目にする季節である。高卒で同世代より一足早く社会人の仲間入りを果たした影山も、ちょうど1年ほど前、シュヴァイデン社の入社式に参加した。そういえば、式が終わったあと初対面の同期たちとともにホテルの大きなパーティー会場で会食をしたが、結婚式と言われてまず頭に浮かんだのは、あの円卓の並ぶ豪奢な会場だった。結婚式に参加した経験が乏しく、影山は勝手の分からないまま不器用に笑顔を作ろうと奮闘する。
場所は沖縄県内のホテル、代表合宿最中の平日の夜である。影山が突貫で撮影に取り組んでいるのは、週末に行われる結婚式にあてたビデオメッセージだった。
*
電話はなぜか、牛島のスマートフォンにかかってきた。夕食を終えた午後8時半、翌日は休養日ということもあり、少しゆったりと寝支度を整えていると、相部屋の牛島がベッドルームで電話を受け、通話を繋いだまま洗面所の扉を開けて入ってきた。
歯を磨いていた影山は、事務的な口調で言葉を交わす牛島をぼうっと見やり手を止めた。
「長さは1分でいいんですね? ええ、ええ。分かりました。私が影山を撮りましょう」
電話口の相手に何やら確認を行いながら、牛島の手がゆるりと肩にかかる。とんとんと背を叩かれ、促されるように影山は口の中をゆすいだ。何が何だか分からないが、どうやら影山にも関係のある話らしいと察する。
「何かあったんすか?」
「お前、専務のご息女のご結婚の件、何か聞いていたか?」
「専務って、うちの会社のですか?」
「ああ。今週末に結婚式があるらしい。夫婦そろってお前のファンだから、サプライズでビデオメッセージを流すことになっていたらしいんだが」
「え……え? 撮ってないです?」
「そのようだな。とりあえず髪を整えろ、やるしかなさそうだ」
「髪ですか」
言われるがまま鏡に向かい、慣れない手つきで髪を触る。影山の視界にはいつもどおりのつるりとした黒髪が映っていて、これ以上どうすればいいのか分からず眉を顰めた。すると、鏡の中で牛島の大きな手が伸びてきて、後ろ頭に触れた。もしかして今日一日中はねていたのだろうか、牛島に髪を梳かれるたび、ぴょこんと引っかかるような感覚がある。何度かそうして髪をいじったあと「映らないか」と諦め半分に牛島は言い、影山を伴って洗面所を出た。
「チームに依頼が来ていたそうだが、どうやら伝達に不備があったらしい。本当なら、お前がチームにいるうちに撮影しておきたかったところだろうな」
「それで、なんで牛島さんの電話にその話が」
「撮影にはカメラマンが必要だからな」
「へ?」
「今どきのスマートフォンは高性能だ。内輪向けに流すビデオとしては、これでも十分なものが撮れるだろう。幸い、会社貸与の端末は最新機種だ」
「……じゃあ俺が今、ここでしゃべって」
「俺が撮る」
「なんかすげえ……」
アドラーズではさぞかし、大騒ぎになっていることだろう。よりによって今年の代表合宿は東京、鹿児島、沖縄と場所を移して行われていて、アドラーズの広報も帯同していない。頼れる者は本人ばかりで、「アドラーズ代表ハッピーセット」こと牛島も一緒だったので、藁にも縋るような様子で連絡をしてきたという。そうこうしているうちに、影山のスマホにも電話がかかってきて、同様の依頼ののち、ラフ原稿がメールで送られてきた。
「まあ、やるしかないっすね」
「ああ。俺たちもシュヴァイデン社員のはしくれだ、時間外労働に従事するとしよう。お前、アドラーズのユニフォームかジャージは持っているか?」
「も……ってないです。代表のはやっぱりマズいっすかね」
「シュヴァイデンの専務のご令嬢だからな。代表のを着るくらいなら、私服のほうがいいと思う」
「じゃあスーツか……」
「……ん? いや、待て。俺のがあるな。寄贈用のプレミアムモデルのユニフォームを持っている」
「すげ。あ、でも11のですよね」
「11だな」
「ここより上で撮ればセーフっすかね?」
「そうしよう」
影山が水平にした手を胸元に当てると、牛島はうなずいた。アドラーズのユニフォームは、胸元上部に「Schiweiden」の文字があり、その下に番号が大きく配置されている。数字が見切れるくらいのアップというと、かなり「寄り」の絵面になりそうだが、この際なのでしかたがないか、と影山は自分を説得する。
「寄贈するもの着て大丈夫ですか」
「俺が試合で着用済みのものだ。かまわない」
パジャマ代わりのTシャツを脱ぎ、試合の際いつも身に着けているノースリーブのアンダーシャツに着替えた。スーツケースからユニフォームを取り出してきた牛島が、影山の頭にユニフォームをかぶせ、そっと着せかけてくれる。一応、寄贈用のものであることを気にしてのことだろうが、まるで親が子にするような所作だったので、影山はむずがゆい思いで牛島を見つめてしまった。
「……やはり少し大きいか」
少しずれる肩の位置を整え、また髪を梳いて牛島が首を傾げる。
「すぐ追いつきます。鍛えてるんで」
「今撮りたいんだが」
「そうですけど、鍛えてるんで、それは言っときたいです」
「お前が鍛え上がるころには俺も鍛えて一回り大きくなっているぞ。まず背丈が違う」
「牛島さん192ですよね? 4センチっすよ」
「4センチは意外とある」
「う……それはまあ、そうかも」
コートの中ではさほど感じないが、こうしてすぐ近くで向き合って立ってみると、やはり目線の高さが違うことに気付く。同じことを牛島も思ったのか、ふと榛色の瞳が目の前で細められた。
「腰回りは追いつかれる気がしないな。お前はこの辺りが薄い」
無造作に腰をつかまれた影山は牛島の手を見下ろして、口をとがらせながら頷いた。
「腰、肉つかないんですよね」
「無理につける必要はない。骨格筋量は足りているんだろう?」
腰元に触れる手のひらが温かく、なんとも言えない安心感があった。初対面から数えて4年、同じチームになって1年と少しが経つ。いつごろからかもう忘れてしまったが、お互いの体に触れるのを遠慮しなくなったように思う。それは、仲がよくなったというより、自分の体が牛島の一部まで拡大されたような、不思議な感覚だった。自分の腕を触ることを遠慮しないように、牛島の体に触れるのもためらいを感じない。牛島はいちいち驚かないし、あっちはあっちで好きに触ってくる。その距離感が居心地よくて不思議になってしまう。
「撮るか。原稿はどうなっている?」
「えっと、これです」
「大まかだな……」
牛島の言うとおり、よほど切迫していたのか、送られてきたのは箇条書きの大ラフ状態の原稿だった。見知らぬ相手への結婚式のメッセージに、それほどオリジナリティーが必要なわけではないだろうし、きっと当たり障りのないコメントをしてくれ、という意味なのだろう。
「タクロウさん、ユリ子さん、こんにちは。シュヴァイデンアドラーズの影山飛雄です。このたびはご結婚おめでとうございます……。やべえ。ほかに言うことねえ」
「頑張れ。専務から娘さんの話を聞いたことはないのか?」
「ないっす。初耳です」
「じゃあ、そこに書いてある箇条書きの内容をもとに組み立てるしかないな。『バレー談義で意気投合したことが交際のきっかけ』『天照の試合もよく二人で見に行く』か」
「えっと……代表の試合も何度も見に来てくださっているそうで、ありが」
ありがとう、と続けようとしたところで、牛島から「待て、影山」と制止の声がかかる。
「『何度も』は重ね言葉じゃないか」
「かさねことばってなんすか……」
「『たびたび』とか『再三』とか、繰り返しを想起させる表現のことだ。再婚を連想するから、結婚式の場にはふさわしくないとされている」
「連想しねえと思います!?」
「同感だが、まあそう言うな。日もないし、撮り直しになるとまずい。リスクは排除していくべきだ」
「う……分かりました」
「他には……Vファイナルも見に来ていたのか。熱心だな」
「ぶ、Vリーグにも足を運んでいただき、ご声援のおかげで」
「いいんじゃないか」
「昨シーズンを優勝で終えることができました」
「『忌み言葉』だな」
「……はい?」
「『終える』だ。不幸や不吉を連想させる言葉だからよくないとされる」
「よくないとされすぎじゃないですか!」
「世の中のマナーというのはそんなものだ。諦めろ」
「俺無理です。1分も話せません」
「しょうがないな。いったん通し原稿を作るか」
かくして牛島手製のメッセージ原稿が作られ、影山がそれを頭に叩き込んでなんとか撮影にこぎつけたのだが、今度は内容に気を取られるあまり、表情を上手くコントロールできない事態に陥ったのだった。
撮影した映像を見せられた影山は、「表情が硬い」という牛島の指摘を受け入れつつも、首を傾げる。
「俺、でも、普段こんなもんです。愛想ねえし、いつもどおりだなって思われるだけじゃないですかね」
「……そうでもないぞ」
「そう、っすか?」
「お前は案外、柔らかい表情ができる」
心当たりのない影山はさらに首を傾げたが、牛島は顔色一つ変えずに自分のスマートフォンをいじり、メールボックスを開いた。
「先日、社内報の写真をもらった。これを見てみろ」
牛島に差し出されたスマホの画面をのぞき込む。そこには、Vファイナル優勝直後に、チームメイトに肩を抱かれ、優勝をかみしめる自分の姿が写っていた。
「どうだ」
「どう……まあ、はい。満足そうにしてます」
「今の顔と全然違うぞ」
「そうかも……いや分かんないです」
「このときの気持ちになれればいいんじゃないか。肩を抱こうか」
「……ハイ?」
「肩を抱こうか」
牛島が左手にカメラを持ち、右手を影山に向かって広げた。
「優勝おめでとう」
「いや苦しいっス」
「嫌か? 俺はかまわない」
「嫌ではねーっす、そうじゃなくて……本気か牛島さん」
「よく戦った。今年のアドラーズは強かった」
「う、ウス……」
Vリーグファイナルの再現を真剣にやるつもりらしい牛島は、カメラを持ち替えながら影山の肩に手を伸ばした。大きな手のひらで抱き寄せられると、肩にしか触れていないのに、体全体が牛島のほうへと引きずられる。
日頃、チームの広報から「歩く自撮り棒」と呼ばれ、広角撮影に貢献している牛島が、その腕を伸ばしてインカメラで影山と牛島を捉えた。
「まだ硬いな」
「どういう状況すかこれ……」
ベッドのヘッドボードを背景に、男二人で身を寄せ合う様は不可解そのものだ。
「影山」
「はい」
「お前のバレーボール選手としての目的地を俺は知らない」
「え? えっと……はい」
「お前を育てたのは烏野高校排球部で、日本代表というチームに必要とされ、いずれ海外のクラブにも行くだろう。それでも、お前は今アドラーズのものだ」
手のひらで、11番のユニフォームの袖口を腕に撫でつけられ、影山は頷いた。
「他のどのチームでもなく、お前はここを選び、選ばれた。お前の対角は日向翔陽ではなく俺になった。いったいどれくらいの人がこうなることを予想していただろうな」
「俺は違和感ないです。上手くハマったっていうか、確かにそうなるよな、みたいな。なんて言うんですかね、こういうの」
「『収まるところに収まった』?」
「あ、それかも」
「まるで結婚でもしたみたいだな」
「……え」
「ああ、だいぶいいんじゃないか」
驚いて顔を上げる影山を見て見ぬふりで、牛島は画面越しの影山の表情に頷いてみせる。
影山から離れ、カメラを構え直す牛島に促され、影山はどこかぼんやりとしたまま撮影に臨んだ。その日のうちに無事動画を提出することはできたが、映像を確認した牛島が、「まあ、これでいいんじゃないか」らしくもなく妥協を口にしたのが気になった。
*
沖縄合宿を終えて戻ると、移動日を兼ねた僅かばかりの休日があった。次の合宿地は赤羽のトレセンなので、東京組はいったん帰宅することになり、牛島と影山はそろって帰寮し、翌日再びそろって寮を出た。トレセンでの合宿のあとは、場所を移して千葉合宿、そしてアメリカ遠征と続き体が空かなくなるので、移動途中の乗換駅で会社の広報担当と落ち合い、ランチがてらにアドラーズ周りのサイン対応とグッズ確認を行うことになった。
個室でステーキランチを待ちながら、夏ごろ発売予定のステーショナリー用のデフォルメイラストに目を通す。A4の紙にカラー印刷されたキャラクターをまじまじ見つめ、自分はこんなに口を尖らせているだろうか? と疑問に思ったが、広報担当も牛島も「似ている」と太鼓判だった。
「そういえば二人とも、結婚式のメッセージ動画あっちで撮ってくれたんだって? 専務も、娘さん夫妻もすごく喜んでたって。ありがとね」
広報に言われ、影山と牛島は「いえ」と声を重ねた。
「助かったよ。チーム管理部の人らほんとに寝耳に水だったらしくて、二人から動画届いたときには、フルセットマッチ取ったくらい事務所沸いてたよ」
「それはよかったです」
「あれ、酒井さんも見ましたか」
「見た見た。あれ牛島くんが文書いたでしょ?」
「ええ。ばれるものですか」
意外だったのか、牛島は少し砕けた口調でそう言った。牛島も「ばれる」などという言葉を使うのだな、と思った。
「ばれるばれる。牛島くんのインタビューと文章が似てた」
「それ、俺も思いました」
「事務所みんなにっこにこだったよ。文章は硬かったけど、影山くんの表情はなんかフワっとしててすごくよかったし。これからユーチューブ動画の撮影牛島くんに任せたら? ってさ」
「あー……」
「え? 何、何か心当たり? コツとかあるの?」
「……いえ、そういうわけじゃないけど」
影山が頬を掻いていると、引き戸が開いてランチプレートが運ばれてきた。残りの時間は忌み言葉談義でもちきりで、メッセージ動画の秘訣については深く掘り下げられないまま話が流れていった。
確認業務とサインを終え、影山と牛島は二人、タクシーに乗り込んだ。
「俺結局動画見てねーんスけど、ほんと大丈夫だったんですかね」
「問題なかった。俺たちはよくやった」
「ならいいんすけど……データってまだありますか? ちょっと見たいです」
「……かまわないが」
隣の牛島が、昼下がりの陽光に横顔を縁取られ、スマートフォンを操作する。
再生ボタンを押して、スマホの画面を差し出される。
「……牛島さん」
「ん?」
「あの、右下のって、何でしたっけ」
再生中の動画の下に、牛島の画像フォルダのサムネイルが並んでいた。その一番右端、影山のメッセージ動画の隣に、写真だろうか、真正面を向いた自分の姿が表示されている。
影山がそのサムネイルに触れるのを、牛島は止めなかった。
拡大された写真を見て、影山ははっとし、顔を上げる。
「ばれたか」
逆光の牛島が目を細める。画面の中で、ホテルの壁に飾られていた、ハイビスカスのレリーフを背にした自分が、間の抜けた顔でこちらを向いていた。
「せっかくだから撮ったんだ」
スマホを持つ影山の手を、牛島がつかむ。少しの遠慮もなく、まるで自分の体の一部のように。
サイズの余る11番のユニフォームを着た自分を写真に収めて、牛島はどうしようというのだろう。
「牛島さん……」
「最近、ずっと考えている」
何をですか。影山はうまく回らない唇を動かした。影山の瞳の奥、脳の髄まで見透かすようなまなざしで、牛島に見つめられる。
「どうすればお前は俺のものになるだろうかと」
幹線道路を走るタクシーの走行音が轟々と耳に響く。
手首を握る牛島の手のひらが、灼けつくように熱かった。