intermission II

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原作軸(牛影)

・2017年4月、影山くん熱を出す(牛影)
・倫理的R-15




「おっかしいなぁ、飛雄くんどこにもおらんやん……」

 夕食後のつかの間の自由時間に、侑は影山を探してホテルの中を歩き回っていた。皆風呂に入ったり、談話室を利用したりと出歩く時間帯なので、探し人が見つからないこと自体は珍しくない。しかし、影山飛雄は真面目な男で、どのくらい真面目かというと、牛島若利くらい真面目だと説明すればご理解いただけるかと思うが、とにかくそういうわけなので、この時間に部屋を訪ねて彼がいないというのは、侑にとって驚くべきことだった。
 さてどこへ行ったのか、夜に抜け出して落ち合う彼女もいるまいに、と侑が首を傾げていると、廊下の向こうから、いやに姿勢のよい男がこちらに向かって歩いてくるのが見えた。

「あ、牛島くん!」
「おい、声が大きい」

 手を上げて声をかければ、日本男児の天然標本のような男が顔をしかめる。
 この生真面目な物言い、それでこそ、影山飛雄の範たる牛島若利の姿と言えよう。そういえば、牛島の姿も練習後見かけていなかった。

「牛島くん、飛雄くん知りません? どっこもおらんのよな」
「影山なら寝ている」
「まだ8時ですけど!? エエ子っちゅうよりおじいちゃんやなもう……」
「そうじゃない。体調不良だ。熱を出して今寝込んでいる」
「ええ!? ウソやん! 昼間はぴんぴんしとったやんか」
「練習が終わってから急に体調が悪くなったらしい」
「うえぇ、あの自己メンテの鬼がなぁ。せやったんか……」

 珍しいこともあるもんやなあ、鬼の霍乱やなあ、と侑は顎をさすり、現金にも明日の練習に思いを馳せる。紅白戦の予定だったが、その調子では影山の参加は無理だろう。率直に言ってつまらない。先輩セッターの鍋田が相手チームのセッターになるのだろうが、正直、断然、影山とやりたかった。

「まさかインフルです? って、4月やしなあ」
「医師の見立てによると、扁桃炎だと。うつりはしないが、熱が高く、しんどそうだ」
「うえ、ほな2、3日かかるやん。げー、つまらん。あ、いや、し、心配やなあ!」

 芝居がかった口調でとっさに出た本音を誤魔化し、侑は神妙な顔をつくる。牛島は、あきれているとも、何も感じていないともとれる表情で無言を返し、「お前の用は何だったんだ?」と話題を切り替えた。

「あ、せやった。飛雄くんが探しとった試合のDVDもろて、貸したろか? っちゅう、まあ、急ぎでもなんでもないですね。飛雄くん、今どこおるんです?」
「フロア借りで、空き室があったから、奥の和室に寝かせている」
「いや所帯臭スゴっ!」

 膝から崩れ落ちんばかりの衝撃に、侑は口元を覆った。

「……は?」
「寝かしとるて! 嫁か!」
「嫁じゃない。何を言っているんだお前は」
「旅先の温泉でのぼせた嫁を部屋の布団に寝かした旦那の口調やないですか」
「宮。影山は病気だ。うっかりのぼせたわけじゃない」
「分かっとる! たとえですから!」
「DVDは俺が預かろう。渡しておく」
「いやいいですいいです。部屋、そっちのはじっこんとこ? 持ってくついでに顔見たろ」
「見なくていい。お前は騒がしいから来るな」
「静かにくらいできますよ、大人やねんから」
「現に今騒がしいだろうが。あれはさっきようやく寝ついたところだ。そっとしておいてやれ」
「『あれ』! 『あれ』言うたで! 『あれ』はあかんよ!」

 侑としても、最初はもちろん牛島をからかってやるつもりで言ったのだが、いよいよ「所帯臭」と呼ぶべき物言いになってきてもう一度驚く。

「影山はチームメイトだ。ほとんど毎日顔を合わせているし、家族のようなものだ。多少の世話は焼いてもいいだろう」

 さらなる追い打ちに驚愕する侑を牛島は今度こそ面倒くさそうに見やって、手を差し出した。

「――DVDを貸すなら貸せ。俺が渡す」
「ほんじゃ、預けますけど。なあ、牛島くん。ちゃいますよね?」
「何がだ」
「扁桃炎。ゴックンとかさせてませんよね?」
「……ごっくん? ごっくんとはなんだ」
「うわ伝わらへんのかいな……忘れてください」
「気になるだろうが。説明しろ」
「大したことちゃいますから。スコーンと忘れてください、スコーンでも食うて」
「スコーンなんてない」
「言葉の綾ですって。まあほんじゃ、そのDVDよろしくお願いします」
「……わかった」

 眉を寄せたあと、小さく首を傾げたまま、牛島は頷いた。その表情が、険しいだけでなく常より暗いことに気が付いて、侑は「なんか牛島くんも元気ないですね」と肩をすくめた。

「そうか?」
「明日の練習つまらんなったから? 飛雄くんと試合したかったんやろ」
「そんなことは思っていない。鍋田さんと連係を高めるのも重要だし、セッター間で差をつけるつもりなど全くない。……だが」
「ん?」
「影山が寝込んでいるのを見ると、なんとなく、気分が落ち込む」

 口にしながら、布団に横たわる相棒の顔を思い浮かべたのだろうか。自分の記憶からダメージを受けたみたいに、牛島は無表情のまま、また一回り、しゅんと生気をしぼませた。

「影山が体調を崩したのなんて初めてだ」
「……せやなぁ」

 牛島の言葉にうなずきながら、侑はかゆくもない頭をかいた。これはもしかして、意外と本当に参っているのかもしれないぞ、と思う。珍しいもの見た。しかも、牛島当人すらそのメカニズムを理解していないようだった。



 体のすぐそばに人の気配を感じた。
 誰だろう。小さな息遣いと、嗅ぎ慣れたかすかな匂いに心地よさを覚えながら、熱っぽく重いまぶたを上げる。胡坐に組まれた、たくましい足が目の前に現れた。

「すまない。起こしたか」

 体をたどり、目線を上へ向けると、知り尽くした先輩の顔がそこにあった。

「いえ、いま……」
「まだ8時半だ。少し寝ていたようだな」

 小さくうなずくと、牛島に胸元のふとんをかけ直される。
 トレーナーならいざ知らず、どうしてここに牛島がいるのか、影山には分からない。
 ほかに人の気配はなかった。理由は分からないが、体調を崩した影山の見守りを、牛島が請け負っているようだ。

「うしじまさん」
「……しゃべらなくていい。喉が痛いだろう」

 牛島の言葉に、影山はまた小さく頷いた。のどは熱く、腫れている感覚があり、ちゃんと名前を呼んだつもりだったのにかすれてほとんど声にならなかった。
 こんなふうに、不意にバレーができなくなるのはいつ以来だろう。風邪らしい風邪なんて10年以上引いていない。頭に浮かぶのは明日の紅白戦のことばかりだ。今日の練習終わりにチーム分けが発表されていて、牛島をはじめとする若手とベテランの混成チームで、侑率いる相手チームと対戦できるはずだった。貴重な代表合宿期間だ。本音を言えば強引にでも参加したいが、体は他人の物のように重く、言うことを聞いてくれそうにない。
 あした、一緒にバレーできなくてすみません。
 薄く霞んだ視界に、飽きるほど見た先輩の顔がある。
 ここ数年、牛島と過ごす時間が増えた。チームでも代表でも、時には地元の取材などでも一緒になる。昔出かけた日の記憶を、「あのとき牛島さんといたな」、などと思い出そうとしても、影山はたいてい牛島と一緒にいるせいで結局何のヒントにもならない、なんてこともよくある。
 牛島といると、合宿所なのだか、海外なのだか、寮なのか、判断がつかなくなる。
 あるいは、実家か、祖父母の家だろうか。

「かなり汗をかいているようだから、水分を取ったほうがいい。起きられるか?」

 そう言われて初めて、自分の喉が渇いていることに気付く。確かに、このまま寝ていると脱水状態になるかもしれない。周囲を見回しながらのそりと体を起こすと、牛島がどこからともなくスポーツドリンクのペットボトルを持ってきて、影山の体を横から支えてくれた。

「飲めるか?」

 ふたの空いたボトルを口元に寄せられ、影山はそれを両手で受け取った。体を起こすか、ボトルを持つか、どちらかならできそうだったが、同時には少ししんどい。何も言わずするりと半分布団に入ってきて、影山の背を体で支えてくれる牛島に体重を預け、影山は喉を潤した。
 すみません、世話かけて。そう伝えようかと思ったがやめた。「気にするな」「かまわない」と、牛島がきっぱり言うのが聞こえるようだった。
 飲み終えた影山の手からペットボトルを引き取って、牛島はゆっくりと影山を敷布団に寝かせた。体に布団をかけた手で、前髪を整えられ、手の甲でそっと頬を撫でられた。

「まだ熱が高いな。じき薬が効いてくるだろうから、ゆっくり休め」

 うなずくと、頭を撫でられた。
 牛島は、何か言いかけて、口をつぐんだ。横たわる影山を見つめて、少し難しげな顔をしている。影山はそれを、牛島が困っているときの表情だと知っていた。
 牛島さん?
 布団から手を伸ばし、何も言わず、牛島の膝に触れる。
 どうしたんですか。
 俺に言いたいことですか。
 影山の手を、牛島の肉厚な左手がすくって、優しく握り込んだ。

「あまり体調を崩したことなどないだろう。不安になっていないか。大丈夫だ。すぐによくなる」

 言霊信者かのように、小さく抑えた声に力をこめる牛島を、ぼんやりと見上げる。弱り切った今の自分では今にも吸い込まれてしまいそうな、まっすぐな瞳が影山を映している。
 この人、真剣だな。たぶん、真面目なんだな。
 それから優しい。優しいから、俺の気持ちを想像したんだろう。最近そういうのが少し分かる。

 大丈夫です。心配しないでください。

 そんな気持ちを込めて手を握り返すと、牛島はぴくりと眉を小さく動かして、何かをごまかすように、両手で影山の手を包み込んだ。

「影山。……必ずよくなってくれ」

 低く、真剣な声で、牛島が言う。
 牛島の顔には、影山がよくならないと困る、なぜだか分からないが、とても困ると書いてあった。たとえば明日、試合ができなくて困る、という意味なら「なぜだか分からない」なんてことはないはずなのに、牛島は困惑していた。理由の分からないまま影山は、自分の健康無事が牛島若利の喜怒哀楽を揺るがしうるのだと知った。
 影山がうなずくと、牛島は踏ん切りをつけるようにうなずき返して、影山の腕を布団の中に仕舞い、腰を浮かせた。

「……携帯電話は手元にあるか? ――そうか。何かあったら呼んでくれ。飲み物と体温計はここだ。電気を消すが、大丈夫か?」

 影山が首を縦に振るのを確認し、牛島が立ち上がる。

「俺は部屋に戻る。おやすみ、影山」

 入り口へと向かう大きな背中を見送りながら、喉がギュッと詰まって、苦しくなるのを感じる。パチンと音を立て、部屋が暗闇に包まれるといっそうだ。さっきまでもう少し息がしやすかったというのに。馴染みきった人がそばにいて、自分は安心していたのだろうか。

「いや。やめた」

 その声とともに、突然パチンと音が鳴り、再び部屋が明るくなる。視界から消えていた大きな図体の男が、のしのしと枕元までやって来て、目を丸くする影山のそばにするりと腰を落とした。

「俺もここで寝ると、マネージャーに伝えてくる。布団も余っているようだし、問題ないだろう」

 影山は反射的にかぶりを振るが、牛島は「置いていくのが不安だ」と、積んであった布団を広げ始める。

「俺のわがままだ。見逃せ」

 声にならない影山の遠慮を遮るように牛島は言って、素早く部屋を出て行き、2、3分であっという間に戻ってきた。

「何かあればすぐに声をかけろ。いいな」

 そう言って隣に敷いた布団の中に潜り込む牛島を、影山は上気した顔でじっと見つめる。頭はぼんやりと晴れないままで、隣に知り尽くした造作の男が眠ることに安堵している自分を、どこか他人事のようにも感じる。

「安心して眠れ」

 長い手が伸びてきて、影山の頭を撫でた。

「おやすみ」
「……おやすみなさい」

 だるさに負けて、次第にまぶたが下りてくる。
 牛島さん。
 牛島さん。
 今までも、これからの人生も。きっと己が呼び続ける男の名を心の中で繰り返した。

 俺が元気だと、あなたは安心ですか。うれしいですか。
 これから先も同じ思いで、この人と互いに無茶を求め合えるようにと祈る。
 ずしりと重く熱っぽい体が元に戻る日を待ちわびながら、泊まり慣れない合宿所の布団の上、影山はただ隣にある気配をたのみに眠りに落ちた。