intermission II

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原作軸(牛影)

・2016年11月、牛影
・休日




「牛島さん」

 当人は気付いていないらしいが、ドアを開け、俺の姿をその目で確認するより前に、影山は俺の名を呼んでいた。
 時刻は11時58分、昼どき。寮の自室の戸を叩く音に、昨日の試合の映像を振り返っていたはずの影山はきっと、集中を途切れさせて、そこのテレビ台に置いたデジタル時計に目をやったはずだ。

「メシですか」
「ああ。行くか?」
「行きます。ちょっと待っててください」

 部屋に戻り、ライダースジャケットと財布を手に戻って来るまで約10秒。準備していたかのように迅速だが、実際は、そんなことはない。ただの慣れだ。チームに入団して1年半、影山は早々にルーキーらしい扱いを断り、チームの一員として、もう当たり前にそこにいて、それらしく気を遣ってやるのも忘れるほどにたちまち馴染んだ。もう5年も6年もそうしてきたかのように、影山は俺の仕事仲間として、同居人として、俺の暮らしの中にいる。
 アドラーズ寮では普段は栄養士監修の食事が提供されるが、今日のようなチーム休日は昼食の提供がない。近所の飲食店に出かける者、デリバリーをする者、寮のキッチンを借りて自炊する者など、過ごし方はさまざまだ。
 約束しているわけではないが、影山とこうして連れ立つときは、行き先は決まって徒歩10分ほどのちゃんぽん屋だった。

「バスの話、聞いたか?」
「席割り変えるって話ですか?」
「ああ」
「多いっすよね」
「多い。昼神さんも好きだな」

 他愛のない話をしながら、ひんやりと外気の吹き込むエントランスを抜け、寮の外に出る。代表で忙しくしているうち、あっという間に夏は過ぎ、すっかり外套が必要な季節だ。

「空、青」

 顔を上げれば、確かに青く、すがすがしい秋晴れの空が広がっていた。雲が一つもなくて、空気が澄んでいるせいか不思議と空が高く感じる。
 寮があるのは都心を外れた、よく言えば緑豊かで静かな、悪く言えばいかにも田舎な街だった。空から影山に目線を戻すと、影山は黒髪を風になぶられながら、まだ頭上を見上げていた。遮蔽物のない寮周りの小道を、隣の影山が目を細めて歩く。

「そこを左に曲がった先に」
「はい?」

 小道の先の小さな三差路を指さすと、影山がこちらを振り仰いだ。

「遊歩道があるのを知っているか?」
「遊歩道? いや、知らなかったです」
「一度行ってみるといい。川があって、静かだし、この時期は紅葉がきれいだ」
「へえ。走れますか?」
「まあ……いや、歩け。情緒がない」
「……牛島さんは、じょうちょある人だったんですね」
「おい、失礼だな。――あと2年ここに住んでみろ。情緒の一つも感じていないと、退屈してくる」
「そうなんですか」
「そのうち分かる」

 影山は「へえ」と驚くでもなく、疑うでもなくつぶやいた。
 ああ、まただ。
 影山といると時折、夏の盛りのぬるいプールに身を浸しているような気分になる。
 確かに触れているのに、体温とぴたりと同じ温度であるばかりに、そこに水があるのを忘れてしまうような。自分がそれと気付くずっと前からずっとそばにいて、いつか、その居心地のよさの波間に、己との境目を見失ってしまいそうな。そういう危うさとも温みともつかぬものを影山は持っていた。



 店に着いて、案内された小上がりの座敷に腰を下ろすと、混み合う店内で、ほうぼうから会釈を寄越される。みな近所の住民たちで、この近くにアドラーズ寮があることをよく知っているのだ。こうして近所を出歩くときは、休日の昼間であっても最低限、振る舞いを律さなければと規範意識が働く。

「何にしましょう。いつもの?」

 いつの間にか傍らに立っていた店主に尋ねられ、俺も影山もうなずいた。

「昼定で。まいど」

 気のいい店主は50代の半ばといったところだろうか、俺たちが来店するときには必ずいる。月に1回くらいのペースで通ううち、どうやらアドラーズに興味を持ってくれたようで、リオのときには「バレー日本代表応援キャンペーン」なる割引メニューが展開されていたらしい。

「代表行ってる間、ここのちゃんぽん食いたくなりません?」

 注文を終え、ラミネートされたメニュー表を壁とナプキンスタンドの間に立てかけながら、影山がつぶやく。

「なる。トレセンの麺類も味は悪くないんだが、あっさりしてるからな」
「そうっスよね。まあ、あのちゃんぽん毎日食ったらヤバいですけど」
「あと、ここで食べることに意味がある」
「分かります。店からちゃんぽんの味する」

 影山が、木目がプリントされたテーブルの、貝殻のような形の染みを爪の先でなぞって言う。昔ここが喫煙可だったころの、たばこの跡だろうか。

「――いや、味はしないが」
「しないっすか」
「でも、ここに来ると、ああ休みだなと思う」
「そうっすね。なんか、凪ぐ」

 凪ぐ。俺は影山の選んだ言葉の残響を味わうように頷いた。
 そうだな。そんな感じかもしれない。
 清潔だが、年季の入った店の内装と、代り映えしない窓の外の景色、正面にはたいてい、影山がいる。それが俺の日常の一部分だ。

「昼定2、お待ち!」

 気付けば、熱く湯気の立つ定食の盆が目の前に運ばれてきていた。ありがとうございます、と影山と声を合わせる。

「お二人とも、いつも来てくれて嬉しいけど、こんなモリモリのメニューで大丈夫なのかな?」
「ええ。たまには好きなものを食べることにしています」

 そう応じると、不安げだった店主に笑顔が戻る。

「そうかあ。実は、オリンピック見てた娘がね、すっかり影山選手のファンになっちゃってね。オトンのちゃんぽんなんて食べさせて平気かってうるさかったの。安心しちゃった」
「すげーうまいっす。食えなくなったら困ります」
「ほんと?」
「牛島さんも困ります」
「そうですね、困ります」
「そっか。いやあ、嬉しいねえ」

 店主はころころと笑って、額の汗をぬぐった。

「うちの娘、今年で18でねぇ。俺に似ず、意外と美人なんだよ。影山選手、どう?」

 突然の提案に、店主を見上げて、影山は目を丸くした。オヤジさん、だめですよと常連の誰かの野次が飛んでくる。
 冗談だ。もちろんそんなことは分かっていた。

「影山は」

 分かっていたが、口が勝手にしゃべりだしていた。

「決まった相手がいるので」

 店主は、なんだ残念、影山選手も隅に置けないなあと笑って、すぐに厨房へ戻っていった。影山だけが俺を見つめ、穴が開くほどに見つめて、互いに上の空で昼定食を腹に収めた。



「どういう意味ですか」

 帰り道も半ばを越えたところで、俺の腕を、背後の影山が握り込んだ。

「さっきの。どういう意味ですか」
「……深い意図はない。お前はああいうのをあしらうのが苦手だと思ったから、口出ししただけだ」
「苦手ですけど。でも、あの言い方、誤解されませんか」
「そうか?」
「彼女いるとか言ったらダメって会社の人に言われました」
「『決まった相手』と言っただけだ。彼女とは限らない。もしかしたら俺のことかもしれない」
「牛島さんのこと……?」
「――言葉の綾だ。あの場を終わらせられれば何でもよかった」

 影山から納得の声は上がらない。重りでも巻きついたかのように、一足ごとに歩みが遅くなる。

「牛島さんって」
「なんだ」
「最初に会ったころより、誤魔化すの、どんどん下手になってます」

 言われて、俺はいよいよ立ち止まる。

「誤魔化してない」
「じゃあ、なんであんな変なこと言ったんですか」

 なぜ? 青みがかった瞳に問いかけられ、俺は自問する。
 嫌だった。
 何が?
 失うのが。
 休みの日に連れ立って、他愛もない話をしながら代わり映えのしない地元の街を歩き、食べ慣れた定食に舌つづみを打って、やはり体によくはないから、次はひと月は空けて来ようとうなずき合って、同じ住まいに帰っていくような日常を。
 影山のいる日々を取り上げられるのを、断りたかった。

「帰ろう」

 影山に向かって手を差し出すと、影山は首を傾げた。
 意図を問われているのはもちろん分かっていたけれど、答えずに手を突き出すと、影山は首を傾げたまま、俺の手を取った。足を止めていた影山の手を強引に引き、連れ帰るように家路をたどる。

「俺が下手になっているわけではない」
「いや、すっげぇばればれっす」
「お前が俺を知っただけだ」
「それは、……あー……あるかもしれないです」

 素直にこちらの主張を聞き入れる影山に、俺は可笑しくなって、腕をたどり、指先を深く絡める。

「俺は分かりやすいか?」
「俺、人の気持ちってよく分かんないですけど、牛島さんは、なんとなく」
「そうか。……あ」

 俺は上機嫌に口元を緩めながら、ふと自分のうかつさに気付いて、間抜けな声を漏らした。

「なんですか?」
「いや……」

 俺は、影山に1つ確認をし忘れておいて、大事なものを他人の手から守り抜き、持ち帰っているような気分になっていた。

「お前」
「はい」
「本当は決まった相手がいるのか?」
「……」

 ざり、ざりと、畔を踏みしめる音だけが耳に届く。大事な右手を握らせたまま影山が黙りこくるので、不安になって後ろを振り返ると、大きな瞳でじっとこちらを見つめられていた。

「明日」
「明日?」
「牛島さんにトス上げることは決まってます」
「……そうか。――そうしてくれ」
「ハイ」

 それならやはり、決まった相手は俺なんじゃないのか。
 そう言質を取り付けようとして、やめた。
 肌寒い秋風の中、手のひらの温度が変わらず心地よく、今はそれでいいか、と思ったのだ。