intermission II

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潮汐ロック後日談(牛影)

・潮汐ロック後日談、牛影。
・2015年4月





 Vリーグのシーズンは秋に始まり春に終わる。
 高校生活最後の春高を3位で終え、影山は内定選手として第3レグからリーグの試合に出場し始めたが、引き続き学校には行かねばならず、しばらくは高校生とVリーガーの二重生活が続いた。宮城から高卒でアドラーズに入団した先人・牛島の進言で、ホーム地近辺で試合のある週末はアドラーズ寮の空き部屋に寝泊まりして過ごした。そうしてリーグ終了までの3か月ほどを乗り切って、春先、ようやく正式に寮室を与えられ、影山は実家を離れ寮へと引っ越すことになった。
 生活に必要不可欠なベッドマットであるとか、ローテーブルといった大物は店頭で購入してすでに段階的に運び込んでおり、引っ越し当日に自宅から持ち込むものといったら、衣類や生活雑貨といった身の回りの品くらいで、引っ越し業者に頼むほどの量でも距離でもない。さてどうするか、相変わらず両親は多忙であり、決まった日に車を出せるか分からない。そうやって影山が一人悶々と悩んでいると、ひょいと牛島が現れ、軽い調子で「俺が車を出そう」と提言した。

「牛島さん免許持ってたんですか」
「ああ。卒業後すぐに取った。車もある」
「結構遠いっすよ」
「ドライブがてらだ。俺の運転では不満か?」
「いえ。全然。助かります」

 ありがとうございます、と影山が頭を下げると、牛島は意味なく影山の髪を撫でた。仮住まいの寮室でのことである。

「早く来るといい」
「うす……」

 牛島の腕が影山の体を絡め取るが、これにもとくべつ、理由はない。
 昨年の夏、牛島が言った「真摯に影山のスカウト活動に取り組んだ結果牛島の身に起きた由々しい異変」が恐らく本件に関係しているのだが、その仔細について影山はいまだ教えてもらえないままだ。

「牛島さん」
「なんだ」
「なんか気持ちがいいです」
「そうだな」

 あのときのように、前髪が払われ、唇が額に触れた。儀式のように度重なるので、今度から前髪を分けておくようにしようか、と影山は考えた。ちょうど、Vリーグの中継を見ていた姉から髪形に物言いがついて、近く髪を切ってもらうことになっていたし、いい機会かもしれない。

「来週、よろしくお願いします」
「ああ」

 影山の前髪をいじりながら、牛島がぽつりと、「悪くないな」とつぶやく。

「何がですか?」
「自分の春を終わらせた男を、自分の足で迎えに行くのは」
「牛島さん、意外と根に持ちますね」
「違う。思い出深いんだ」

 頬をすり寄せられ、「そうですか」と軽く目を閉じる。牛島に体を預けているうち、これから始まる共同生活に思いを馳せていたはずの影山の思考はふわふわとまとまりを失っていく。




 引っ越し当日、約束どおりの時刻に牛島は現れた。
 両親ともにはやはり都合がつかず、出社間際の父親が牛島にあいさつをして、二人を送り出した。18年住んだ家を出るにしてはあっさりとし過ぎている気もしたが、後ろ髪をひかれるような思いも別段なく、影山は寮までの道行きのことばかりを考えながらシートベルトを締めた。

「すみません、そろってあいさつできなくて」

 現れたのは牛島の図体をそのまま車体に当てはめたような大柄な車だった。走り出した車内で詫びを口にすると、牛島は前方を見つめたまま肩をすくめた。

「なぜ謝る? 俺はお前を迎えに来た。お前がいたんだから、それでいい」
「……うす」
「髪」
「え?」
「切ったのか?」
「あ、はい」

 牛島の指摘するとおり、つい先日姉に髪をカットをしてもらい、セットのしかたを指南されたばかりだった。サイドミラーをちらりとのぞき見ているうち、ちょうど車が赤信号にかかる。

「よく似合っている」

 隣から左手が伸びてきて、影山の前髪を梳いた。

「あ、あざっす」

 眉の上辺りがぞわりとして、気恥ずかしく思いながら運転席を見やると、牛島が物言いたげな表情で目を細めていた。

「Vリーグはどうだった」
「え? あ、はい」

 信号が青になったのを潮にか、フロントガラスに向き直った牛島から思わぬ質問が寄越されて、慌てた影山は「面白かったです」とひねりのない返事をしてしまった。

「どのチームもクセがあって気が抜けないし」
「岩波さん、……アシスタントコーチの」
「はい。岩波さん」
「デビュー戦のあとの帰り道であきれたように言っていた。『想像の100倍上手いな』と。あの人があそこまで手放しに褒めるのは、なかなかない」
「そう……ですか」
「ホテルに戻って、全体打ちの前に、監督を囲んで会議があった。『明日のスタメンをどうするか』と、みんな結論が出ているのに一応。高校生なのにとか、育成のためにとか、そういうことを言う人間はもういなかった。キャリアを全部抜きにしてもお前だった」

 上手くなったな。そう牛島が柔らかな声で言うので、影山は自分の体が溶け落ちるのではないかと思った。
 デビュー戦は、2セット目半ばからの出場だった。危惧していたような無我夢中の試合ではなく、影山の頭はずっとクリアで、思いどおりに小気味よく体が動いたのを覚えている。
 1本目は牛島に上げた。状況的に最善だったかは記憶が定かではない。ただ、セット途中のセッター交代で、自分がアドラーズというチームに最大火力のカンフル剤を投入するには、牛島を選択するのがベストだと直感した。
 牛島さんは、俺のトスを待っている。あの牛島さんが、俺を呼んでいる。
 この日までのすべての因果が走馬灯のように脳裏を巡ったのは、牛島のスパイクがコート中央に沈んだあとのことだった。
 打ち下ろし、振り返った牛島と目が合った。
 ゴールではない。すべてはここから始まるのだと、飢えを迸らせる牛島の瞳に射貫かれながら思った。
 それからは矢のような日々だった。午前まで学校で授業を受けて、午後から新幹線に飛び乗って地方遠征に合流したこともある。Vでの戦いはもちろん簡単ではなく、高校バレーとスポーツ興行の世界の落差は影山を少なからず疲弊させたが、烏野を去る感傷を押し流してくれるありがたさもあった。アドラーズは結局、ファイナル6まで進出したが、順位点で惜しくも3位以内に入れず、チームの2014/15シーズンは3月をもって終了することになった。

「もっと試合したかったです」
「お前は今年代表に選ばれるだろう。そっちでもっとできる」
「いや、リーグで……。あの、牛島さん」
「なんだ」
「たくさん打ってくれて、ありがとうございました。すごく頼りました」
「オポジットとはそういうものだ」
「いや……牛島さんだったから上げたトス、たくさんありました。ひでぇ二段とかも。それ決めんのかよってぞくぞくすんの、何本も決める。やっぱ牛島さんはヤバい人です」
「なんというか」

 語尾をあいまいに濁すのを不思議に思い、隣を見ると、牛島は太い眉毛を難しげに寄せてしかめ面をつくっていた。

「ハンドルが邪魔だ」
「……ハンドルはあったほうがいいんじゃ……」

 ないですか、と言い終わらないうちに、横合いから腕が伸びてきて、太ももの上の影山の手を握った。熱を持った手のひらに目を瞠る。

「抱き締めたい」

 かっと頬が熱くなり、言葉を失う影山の前で、牛島の横顔はどんどん険しくなっていく。

「あとどのくらいかかるんだ。遠いな」

 走りだしてまだ20分も経っていないのに、牛島はそうもどかしげに唸るのだった。




 はたして2時間ほどのち、寮のエントランスにたどり着いた影山と牛島は、先輩選手たちの拍手によって迎えられた。新人選手の入寮の際はこうして出迎える文化なのだろうか、と想像していると、「おめでとう!」「おめでとう牛島!」とそこここから声が上がり、「頑張って口説いてよかったな!」「幸せにな!」と、結婚式の野次ようなセリフが飛び交って、影山は緩やかに事情を察した。影山が内定選手として練習に合流した当初からこの手のいじりは鉄板となっていて、何かというとペアを組まされたり、隣り合うよう勧められたりしているのだ。

「なんか悪いな……うちの寮、一人部屋しかなくてさ。気が利かねえよな」
「だ、だいじょうぶです?」
「影山、さっさと部屋に荷物を運び込むぞ」
「あ、はい」
「ヒューウ! 鍵はこちらです。203号室、牛島先輩のお隣のお部屋ご用意しました」
「えっと……ありがとうございます。これからよろしくお願いします」

 4つ年上のミドルブロッカーの選手に、すでにそこそこ住み慣れた部屋の鍵を渡される。影山はぎこちなくそれを受け取って、全員に向かって頭を下げた。

「あらやだご丁寧に」
「晩飯は6時からですのでごゆっくりどうぞ」
「あざっす……」
「牛島もっかい寮則の説明したれよ」
「承知しています。このあとすぐに」
「やだ部屋行く気よ牛子……」
「頑張って牛子」

 こぶしを握る先輩たちに見送られ、影山はだいぶげんなりした様子の牛島の背を追った。203号室の部屋の鍵を開け、スポーツバッグを半分を持ってくれていた牛島を招き入れると、牛島は荷物を置くなり無言で背後の内鍵を閉めた。
 それから、疲れのにじむ顔で牛島が大股に寄ってきて、何も言わずに影山の体を抱き締めた。

「牛島さ……、あの、運転、ありが」
「かまわない」
「牛島さん……?」

 腕にこめられた力が緩み、顔を上げると、大きな手のひらが頬を覆った。また額にキスをされるのだと思い影山はぎゅっと目を閉じたが、何秒待っても、それは訪れなかった。
 勘違いに気付いて、気恥ずかしく思いながらそろりと瞼を上げる。すると、触れそうなくらい目の前に牛島の顔があって、影山は目を見開いた。

「だめか」

 何が、と聞くのもはばかられるほど、間近に牛島の唇があった。

「好きだ」

 何も言えないまま、牛島の胸に触れていた手をぎゅっと握り込むと、それを合図にしたみたいに、温かいものが唇をかすめた。

「うしじまさん」
「嫌なら言ってくれ。……我慢する」

 額をすりつけ、唇の先を触れ合わせたまま牛島がかすれた声で漏らすので、影山は首を振るしかなかった。

「嫌じゃないです」
「……そうか」

 頬に、唇に、牛島がたまらない様子で触れていく。
 そうか、この人は俺のことが好きで、今までもキスをしていたんだ。
 影山は今さらのように気付いて、立ってはいられなくなって、牛島の首にすがりつくように腕を回した。

「返事を待てなくてすまない」
「……俺は、牛島さんの手、取るって決めたから」
「選手としてだろう?」
「どっちも。全部。俺、バレーと牛島さんのこと考えてばっかです」

 近づき、ゆっくりと触れていく唇に痺れを感じながら、影山は腕に力をこめる。

「もっと牛島さんのこと教えてください」
「……ああ。全部知ってくれ。好きなバレーも、考えていることも、全部」

 口づけられるたび、逃れようもなく、牛島に捕らえられていく。牛島を好きになってしまうと分かっていて、その腕に身を預ける自分がいる。

「時間はたっぷりある。ずっとお前を待っていた、影山」

 逃しはしないと牛島が笑うので、影山はうなずく。
 ずっと逃さないでくれ、チームでも、代表でも、たとえいつか、どちらかがアドラーズを離れたとしても。
 ずっと俺を望んでくれ。
 影山が数年を急いて、代表ではなくチームで牛島と出会うことを選んだのは、この男の腕に捕まるためだったのではないかとさえ思うのだった。