intermission II

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原作軸(及影)

・影山くんの登場しない及影

・かなり癖あり、合わない予感がしたらすぐバックでお願いいます

 


 

 

 

 果たして及川のテーブルには、戦利品ともいうべきカフェラテと、クリームたっぷりのチョコケーキが鎮座していた。カウンターで注文して、お気に入りのメニューを好きな席で食べる。これが当たり前になるまでに半年、いや、1年くらいかかった気がする。

 高校を卒業し、海を渡った及川が住み始めた町は、英語がほとんど通じず、非常に苦労した。
 というと、まるで及川がもともと英語堪能だったようにも聞こえるが、それもまた違う。高校生のころ、英語の成績はごく普通で、得意だとか、好きだとかいう認識もなかったし、「英語しゃべれる?」と聞かれたら、日本の高校生の平均的な回答にならい、間違いなく「しゃべれない」と答えていたと思う。ところが、地球の裏側までやって来て、物差しはがらりと変わった。スペイン語の100倍分かるし、及川徹、結構英語しゃべれる。神。英語通じる店、神。
 アルゼンチンへの留学を決めてから、及川なりに言語面の準備をしてきたつもりだったが、バレー関係のフレーズを優先して勉強したこともあり、「街中でコーヒーを1杯買う」といったコミュニケーションのハードルがかなり高いことが早々に分かった。勉強はもちろん続けるとして、しばらくは英語を併用して、耳が慣れてくるまでをやり過ごした。
 そういう中で、少しずつできることを増やしていく取り組みの一環として、初めて一人で出かけた先が、チームメイトに薦められたこのカフェだった。
 及川の気に入りのこの店は、市内のショッピングエリアの中にある。人通りの多いストリートに面したオープンカフェスペースがあり、行き交う人々を眺めているだけで、なんとなく暇が潰れる。天気のいい休日には、気分転換によく訪れた。
 日本を離れて、バレーに必死だった分、いわゆるホームシックに陥る期間はあまり長くはなかったけれど、及川を困らせたのは、日本とアルゼンチンの時差だった。
 昼下がり、サン・フアンのカフェにて。
 ケーキおよびサングラス姿の自撮りを旧友たちのグループラインにポストしたいところだが、何せ地球の反対側である。平均的な日本人が寝静まった時間にスタイリッシュな及川をお届けしても、あまり歓迎はされないだろう。
 気がつけば、少しずつ筆が遠のくようになった。最後に日本の友達と会話をしたのはいつだったろうか。

 とはいえ、撮るものは撮っておかなければ、いつか及川徹異国旅情譚として披露する機会があるかもしれない。及川がそう自分に対するジャーナリズムを発揮しスマホを構えたとき、ふと、人影が視界の端に立ち止まった。

「おいかわさん」

 シャッター音をかき分けるように、凛とした声が耳に届く。

「おいかわさん」

 再び名を呼ばれ、顔を上げた。
 黒髪の、丸い頭の、背の高い少年が、及川を見下ろしていた。

「飛雄……?」

 そんなわけはない、ことは分かっていた。ここは地球の裏側、あの男は今も地元の高校で、休みなくバレーボールに取り組んでいる。
 それでも名を呼びたくなった。
 似ている。
 青く、澄み渡る故郷の空に似た瞳の色が、どうしようもなく。

「飛雄」
「? イエス。Do you know me?」

 白いTシャツに、黒いサコッシュを斜め掛けにした少年は小首を傾げる。彼が話したのはとてもプレーンな英語で、発音もネイティブのそれではなかった。

「いやこっちのセリフだよ! ええと、That’s my line! 及川さんって言ったよね!?」
「イエス。You are おいかわさん。I know.」
「なんで飛雄がここにいるの。カタコト英語しゃべってんの。バレーは!?」
「バレー、イエス。I like volleyball. You are fantastic.」
「いやお前だよ! You! 俺は確かにファンタスティックだけど、what are you doing here?」
「Working.」

 少年は、また小首を傾げた。
 手にした黒いビニール袋を掲げ、あそこで、と通りの向こうのレストランを指さした。

「Please come」

 少年はにこりとも笑わなかった。ただ、及川のよく知るその少年によく似た、射貫くようなまなざしで、かならずと訴えた。

**

 チームに戻ってこの話をすると、「そりゃ、ファンだろう」といういたって常識的な見解が示された。街中で声をかけられた。ファンタスティックって言われた。こう伝えたのだから、それは、そういう返事になるというものだ。
 さらに、「日本のちょっとした知り合いに似ている」、これを言うと、「本当に『ちょっとした』?」と、この1年余りで及川を正確に理解してくれたチームメイトらしい、的確なご指摘が飛んできた。そう、まあ、ちょっとした。ちょっとした因縁の少年だ。

 結局、及川は次の週の休みに少年の店を訪ねた。
 果たして店に彼がいるだろうか、というところから不安だらけだったが、及川がドアの隙間から店に顔を出すと、店の一番奥から丸い頭の少年が駆けてきて、「待ってた」と両手で及川の手を取った。

「お前、仕事中でしょ? なにゆっくり座ってんの?」
「へいき。特別な許可。及川さんだから」

 及川を店の奥の二人掛けの席に案内して、頼んでもいないのに料理を持ってきたかと思えば、正面に座って、サルー(乾杯)、とグラスを掲げる。キッチンに立つ店主らしき恰幅のいい男性に視線を送れば、「そいつは今から休暇だ」と鷹揚な判断を示されてしまう。いわく、及川が地元のスポーツ選手で、少年がそのファンである、という事実が同僚たちに伝わっているらしい。こうなってはしかたがないので、及川も乾杯に応じるよりほかなかった。
 カタコト英語の少年は、スペイン語もカタコトで、ほかの店員や、客たちとのやり取りもぎこちなさたっぷりだった。そういうところも、あの不器用な少年を思い出させる。
 少年の働く店は、赤のテーブルクロスが印象的な、色鮮やかな装飾の店だった。まじまじ見るとそんなに似ていないんじゃないか、とも思うのだが、色彩の偏ったほの暗い店の中ではどうにも判断力が鈍って、ついつい似ているところ探しが始まってしまう。これは本当に影山飛雄で、壮大などっきりでも仕掛けられているんじゃないのか? とまで考えたが、影山がカタコトでも外国語をしゃべっている姿が上手く想像できず、やっぱり違うか、と思い直す。

「俺のファンなんだ?」
「サーブすごい。上手い。もうチームとなじんでる」

 バレーの話になると、途端に少年の目が輝いた。ああ、そういうとこ。トスじゃなくてサーブ褒めるとこもね。バカ。

「あーんま、バレーチームのファンって出会わないけどねぇ」
「俺、昔やってたから好き」
「へえ、そうなんだ。今は?」
「してないです。こっちに来てからやめた」
「そっか」
「でも、及川さん、サーブ本当にすごい。真似したくなった」

 少年は、「おいかわさん」だけ、妙に発音よくしゃべった。サン・フアンのセッターが及川という名で、彼の故郷の日本では、尊敬する人物には「さん」を付けるのだ、とネットで調べたのだそうである。

「サーブ、教えてあげよっか?」
「え?」
「ね」
「いいです」
「はぁ? 生意気!」
「だってやめたから」
「まあ、ねえ。そうだったね」

 なにが、教えてあげようか? だ、と思わないこともない。
 あいつには教えなかったのに。と。
 もし、影山飛雄がバレーボールをしていなかったら、及川は、彼と普通の人間関係を築けていただろうかと考える。もし彼が、目の前の少年のようにバレーをやっていなくて、ただ純粋に自分のバレーを褒めて、好いてくれる存在だったとしたら。

「ねえ。俺のことどれくらい好き?」
「すごく。かなり、とても」
「自分の恋人が10だとしたら?」
「100くらい」
「まっ、待ってよ。それはだめでしょ」
「恋人いないから適当です」
「適当かよ」
「及川さんは? 俺のこと好きですか?」
「ええ!?」

 少年は、テーブルに置いた及川の指先に、ずい、とグラスを押しつけた。

「俺、じゃなくて、俺、に似ている人」

 急に酒が回ったみたいに、目の前がぐらりと歪んだ。

「当たった。そうだと思った」
「そういうんじゃないよ」
「分かります。だから気にしないで。その人はあなたの何ですか? 友人?」
「……違う」
「恋人?」
「まさか。違う」

 少年は口をつぐんで、じっと及川を見つめた。及川が答えを提示するまで、引き下がらないぞ、というような瞳で。

「??なんだろう。簡単な言い方をするとライバル。でももっと複雑な関係」
「その人が『トビオ』。そう?」
「そう。お前の名前は?」
「トゥリオ」
「聞き間違えたのか」
「そう、響きが似ていた。名前を知っているのかと思って驚きました」
「そっか。ごめん。人違い」
「日本人?」
「そう。2つ年下。同じ学校だった」
「バレー選手?」
「うん」
「長く会っていない?」
「そうだね。長く」
「でも及川さんにとって、ずっとホットな人」
「嫌なこと言うね。そうだよ」
「トビオは及川さんが好きだった」
「どうしてそうなるの、違うよ」
「そんなに見た目が似ているとは思えないです。俺があなたを好きだから、似たものを感じた、違う?」
「違うよ」
「じゃあ及川さんを嫌ってた?」
「好かれるようなことしてないから、そう」
「説明にならない。だって、及川さんはバレーが上手いから、理由はそれで充分」
「そうはならないの。同じセッターだし、難しい」
「そういうものですか」
「そういうものなの」
「次はいつ会うんですか?」
「予定はないな」
「……それはかわいそうです。及川さんも、トビオも。今でなくてもいい、でも、特別な人には会ったほうがいい。特別な人は、たくさんはいません」

 普段の自分なら反発していたかもしれない少年の提案に、及川は不思議と素直な気持ちで、「そうなのかな」、と考えた。店は騒がしく、いまだ慣れない、異国の音楽が食器の音に交じって流れている。もし、影山がここにいたら。想像すると、やはり喧嘩になりそうだと思った。それでも、どうしても、他人のふりができない人間であることは間違いなかった。

「複雑、それは、あるかもしれない。でもきっと、お互いの人生に欠けてはいけない相手だったでしょう」
「……そうだね。そうかもしれない」
「会えるときに、ぜひ会うことを勧めます。いつまでも会えるかは、分からない」

 少年は寂しげに目を細めて、グラスをそっと口元に傾けた。
 もしかして君は、誰かを。
 それを及川が尋ねることはなかった。

 ――及川さんが幸せでありますように。

 そう言い残して、少年は席を立ってしまったからだ。



「トール!」

 その、さらに翌週のことだ。試合後、コートの中で、ファンへのサインや写真などに応じていると、にぎわうフロアのざわめきをものともしない凛とした声が響いた。

「はーい……え!?」

 背の高い、すらりとした少年が、及川に向かって手を振っている。
 聞き覚えがある声に、記憶にある背格好だった。しかし。

「髪! どうしたの!」

 トゥリオと名乗った少年がそこにいた。しかし、影山飛雄の面影はどこへやら、まばゆいばかりの金髪になって、及川に向かって手を振っていた。

「染めました」
「なん……なんで!」
「似合わない?」
「こともない……、けど」

 どういうことだ。少年は、金髪がよくなじんでいた。そして、自分はこの少年のどこに影山を感じたのか、もはや思い出せないほど、面差しはまるで影山とは違っていた。

「俺、トビオを調べました。全然似てなかった!」
「うん……そうみたい」
「及川さん。トビオのこと好きなんじゃないですか? 会いたくて、人違いするくらい」
「ち、違うから! 全然そんなんじゃない!」

 海の向こうの、はるかかなたの故郷で、バレーにすべてをささげる少年を思う。

「??会いたくなってきた。ちょっとだけね」

 今は遠く、息苦しいほど鮮やかな、俺の青春。