intermission II

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彫れ井戸19

・彫れ井戸スピンオフ、宮影(侑影)未満。
・2019.9.24格納




(19)
 番台と呼ぶにはいささか低いだろうか。
 サンダルを靴箱に預け、昔懐かしい緑の砂落としを軽く踏む。足裏をかすめる粗い目の感触に心地よさを覚えながら、影山は木枠で囲まれた受付の向こうで微笑む男に軽く会釈し歩み寄った。風呂屋の窓口であるので、番台には変わりないのだろうが、ネット競技の審判台のような背の高いそれとは趣が異なり、どちらかというと市営体育館の受付なんかに近い。
 カウンターの上にはいつもどおり、石鹸やシャンプーハット、ヘアゴムといった風呂道具が雑然と並び、背後の棚には、貸し出し用のタオルが収められている。必要なものが、最低限。もう50、60年はやっているという町の風呂屋には、アメニティーなどと呼びたくなるおしゃれな備品は一切ない。

「ご無沙汰だね」
「うす」

 すっかり顔なじみのTシャツ姿の男に、影山は頷いた。もうすぐ午後4時を回ろうとしているが、採光を自然の恵みに頼り切った銭湯は、この受付を除いて電灯がついておらず、常と変わらずほんのりと薄暗い。影山は訪れるたび、もしかして店じまいしたのではと不安を抱き、この男をカウンターの奥に見つけては、そっと胸を撫で下ろすのだ。
 そんな影山の不安を見透かしたように番台の男は「1か月ぶりくらい?」と目を細め、面白がるような表情で頬杖をついた。

「そろそろ潰れてる頃じゃないかって思ったでしょ。影山、俺の顔見てあからさまにほっとしてた」
「いや、違ぇ……休みかなって」
「うちは年中無休だよ。料金もルールも変わりなし。どうする? 『手ぶらコース』でいい?」
「はい」
「じゃあ、400円になります」
「うす」

 用意しておいた五百円玉を、これもまた古風なプラスチック製の釣り銭受けに支払う。男は手際よく釣りの百円玉を影山の手のひらに載せ、タオルを差し出してきた。

「あざっす」
「影山、今日ね」
「? はい」
「年中閑古鳥で見るからに経営難、あの銭湯が潰れないのは地下に隠されたヤクザのヤサに夜ごと温泉水を横流ししているからに違いないとまで言われたウチに、なんと先客がいるんだ」
「えっ、珍し……じゃねえ、えっと」

 「誰がそんなことを」と言いかけた影山を、助け舟のなめらかさで、「うん、いいよ」と男が遮る。

「しかも、このへんじゃ見ない顔でね」
「へえ……」
「結構イケメン」

 もったいぶった様子でにやりと笑い、必要とも思えぬ情報を付け足す男に、影山は首を傾げ、頭を掻いた。

「……それ、俺に言ってどうするんすか、赤葦さん」

 脱衣所に向かう影山に、彼は「『イケメンが集まる公衆浴場』って撮影、交渉しといてくれない?」とひらひら手を振りながら言った。「『みかじめの湯』に改名するのは嫌だしね」



 みかじめの湯、ならぬ「梟の湯」というのが影山気に入りの公衆浴場の名前で、仕事終わりに時折足を伸ばして訪れている。この店の「手ぶらセット」には、入浴料のほかタオルと湯上がりの飲み物1本が付いてきて、シャンプーリンスも無償の良心的な価格設定は、ここ数十年変わっていないらしい。
 それから、変わっていないのは、先ほど赤葦が言った「ルール」もそうで、影山が頻繁に訪れている理由の一つはここにある。当店、タトゥーお断り。すなわち影山は、客にも同業者にも会わずに済むというわけだ。
 人種のるつぼ化が進む烏野の町で営む風呂屋なら、そちらを許可すれば人も増えるだろうに、梟の湯の商魂は今日まで見いだせないままだ。

 脱いだ服をロッカーに預け、鍵のゴムを腕に通して、ガラスの引き戸を開けた。壁の上方が一面窓で、それなりの明るさが確保されてはいるが、こう見渡してもやはり薄暗い。浴場は静まり返っていて、本当に先客がいるのかと疑ったが、シャワーで軽く体を流して湯船に足を伸ばすと、富士山を背にふんぞり返る男と正面から鉢合わせした。

「おっ、どもども」
「っす」

 不意に全裸で遭遇した無防備さに焦りを覚え、影山は隠れるように湯に体を沈めた。
 影山にあいさつしてきたのは金髪ツーブロックの男で、頭にタオルを載せ、随分機嫌がよさそうである。赤葦の言ったとおり、世間で言う「イケメン」という種族のようで、どうもこの町の風呂屋には似つかわしくないように思う。

「来た来た、待ってたで」
「待ってた?」
「番台の兄ちゃんに言われてん。たぶん、あとで、同い年くらいの男の子来ますよて」
「はあ……」
「イケメンなん? て聞いたらいい笑顔でイケメンや言うから、そら顔拝んだらなと思て。盛ってへんかったな兄ちゃん。まあ兄ちゃんもイケメンやったしな」
「はあ……?」
「いやん、今俺褒めてんけどなあ君のこと」
「……あざっす?」
「なんや君、天然かいな?」

 初対面だというのに、顔なじみでもいかがなものかというほど怒濤のごとく喋る男に、影山はぼうっと返事をするばかりになる。なぜ赤葦が影山の来店を予見していたのかは謎だが、恐らくはシンプルに勘だろう。

「常連なんやろ。地元の人?」
「生まれは違いますけど、今は近くに住んでます」
「はえー、そうなん。ちょ、そない隅っこにおらんと、こっちで並んで富士山にもたれようや」
「……俺いつもこっちなんで」
「そうなん? ほな、俺もそっち行こ」
「え……はあ」

 体の前面を堂々晒してざぶざぶと湯の中を歩き、男は愉快気に壁面画を見上げながら影山の隣に腰を下ろした。

「お、確かにええ眺め。なあ、俺宮侑っていうんやけど。君は?」
「影山です」
「かげやまくん。下は?」
「と……」
「あ、ちょい待ち! 当てるわ」
「当てるんですか」
「当たる気ぃすんねん。俺こういうん得意やから。『と』ナントカやろ。待ってな。と、と……なあ、『と』で始まる名前ムッチャ少ないことない? 待ってや……、あ、なるほど、うん、『とおる』や」
「違います」
「せやろなあ、ちゃうわな。『とおる』って感じミジンコほどもせーへん。うん、ちゃうな。もっとこう、とんがった名前や」
「当たらないと思いますよ」
「珍しいん? とか、とき、とく、とけ……分かった、トミーや!」
「飛雄です」
「せやろな思ててん」
「なんなんですかあんた」
「あんたやなくて、宮さん」
「……宮さん」
「うわ、めっちゃ素直。フッフ。ええ子やね、きみ」

 とびおくんかあ、と男は顔を湯で流しながら、影山の名を舌の上で転がす。何が面白いのか、宮侑なる男は一貫して上機嫌である。
 どうやら、自分の苦手な人種のようだぞという警戒感が頭をもたげてはいるものの、こうも距離を詰められたのでは躱すのも難しい。

「どうしてこんなとこに」
「珍しい? 俺な、地元兵庫やねんけど、旅行でフラフラーっとな」
「この辺何もなくねーすか」
「うん。駅でチャリンコ借りて無計画旅しとってんけど、無計画すぎたわ。この町入ってからなーんもないし、暑いし、暑いし、ほんで暑いし」
「暑いすかね」
「ん。そしたら、ちょうどええとこに銭湯あって、命拾いしたわほんま。ムッチャ安いし。あれやろ、待合の冷蔵庫のやつ飲んでええんやろ、手ぶらコース」
「あ、はい」
「神やなー。なんでこんな寂れとんか知らんけど」
「それは、俺もよく分からないです」

 梟の湯はもっと評価されるべきだ、と心の中で憤る影山を、金髪の男がおかしそうに見ている。

「な、飛雄くん、いくつ?」
「23です」
「おー、1個下や。仕事は?」
「一応してます」
「平日の昼間っからフラフラできる仕事?」
「まあ……。ていうか、宮さんもですよね」
「うん。俺も平日の昼間っからフラフラできる仕事」
「そう、ですか」
「おそろいやね」

 宮侑はそう言って目を細め、浴槽のへりに頬杖をついた。探るような目つきに影山は警戒心を覚え、少し体を引きそうになる。

「当てよっか、今度こそ」
「なにを」
「仕事」
「当たらないと思いますよ」
「うん。君絶対、ふつうのお仕事ちゃうね」
「あー……まともな仕事できそうにないってよく言われます」
「いや、ちゃう。君はなんか、生業のほうに君が選ばれた。そういう仕事やろ? 顔で分かるわ……」
「どう、ですかね」
「飛雄くんも当ててよ、俺の仕事」
「当たるんすか?」
「難しいやろなあ」
「……手、見せてください」
「おん」

 こうもヒントのない状況では、当てようもないだろう。せめて何か手がかりを得ようと問いかければ、宮は躊躇いなく右手を差し出してきた。

「大事に触ってな」

 左手で彼の右手を掬い上げると、宮は顔を寄せ、影山の口元にそう囁いた。「商売道具やねん」

「利き手、右ですか」
「うん。君は?」
「右です」
「うん。これ、商売道具?」

 湯の中から、右手を絡め取られる。指を組み合わせるようにして握り込み、宮はその手を左右に振った。

「そうです」
「そっか。タコあるなあ」
「宮さんも。親指と、人さし指の腹、小指の外側」
「手のひらの真ん中。左の親指の付け根」
「そうですね。使います」
「フッフ。これ、エッチやなぁ」
「……そうですか?」
「半分、飛雄くんの顔のせいかな」
「顔?」
「うん。エッチなことされとるやろ、男に」
「……っな、ん」
「ふはっ、そのリアクションあかんって! まじか、ごめん」

 目の前の男の職業に巡らせていた思考を吹き飛ばされ、驚きに仰け反る影山に向かって、宮侑はこらえきれない様子で噴き出した。

「まじかぁ。いや、ごめん、意地悪するつもりやなかったんよ。きみがあんまり可愛かったから、つい」

 穴があったら入りたいとはこのことだと思う。
 逃げるように、血が昇った頭をぶくぶくと湯に沈めれば、唇を噛みながら微笑む男に両手で頬を包まれ救助されてしまう。

「やめときって、溺れんで」
「誤解、なんで。びっくりしただけです」
「分かった分かった。おもろい子やね。適当言うただけやって」
「――結局何だったんですか」
「ん?」
「仕事」
「ああ、せやな。お詫びに教えるわ。俺、彫り師やねん」
「え……?」

 影山は耳を疑う。目の前の見知らぬ男は、変わらず微笑を浮かべている。
 こんな偶然があるものか、と疑わずにはいられない。疑わずにはいられないが、影山は、引き込まれるように男の瞳を見つめ、「俺も」と口走っていた。

「俺も彫り師です」
「うそやろ。……本気で言うてる?」
「ほんきです、本当です」
「ありえんやろ、こんな偶然。この時代、現役の彫り師が何人おると思てんの!?」
「分からないですけど、――この手、ボカシの針の柄が当たるところです。持ったとき、こうやって」
「うん?」
「宮さん、けどじゃあ、ここにいるってことは、そういうことですよね」
「ど、どういうこと」
「刺青入れてないんスよね!?」
「うん!? ちょ、落ち着き」
「そんな彫り師初めて会いました。俺もです。俺も墨、なくて、けど」
「待ちって!」
「うれしいです!」
「うれしいとこ悪いけどっ! たぶん誤解や!」

 荒らげた声が、絶え間ない水音の注ぐ浴室に反響した。かぽん、と、プラスチックの風呂桶が頃合いを見計らったように、どこか遠くで転げ落ちる。

「分かったで、飛雄くん、彫り師違いや」
「……はい?」
「君、刺青の彫り師なんやな?」
「……はい。……え?」
「見えへん……」
「宮さん、ちがうんですか」
「飛雄くん、浮世絵って知っとる?」
「はい、もちろん」
「知っとるんかい」
「モチーフでよくあるんで……」
「あーそか、なるほどな。あんな、俺はその浮世絵彫る人やねん」
「え……。あっ!? そ、あ!?」
「木版画の彫り師。なんかゴメンな」
「いえ……」

 呆然と首を振りながら、影山は己の視野の狭さにも、また唖然とする。そうだ、「彫り師」が刺青の彫り師のことだなんて、いったい誰が決めたというのだ。
 平謝りする影山の頭を撫で、宮侑は「なんや、友達欲しかったん?」と笑った。違うと答えたが、ではなぜ今、宮の存在を喜んだのかと問われれば、据わりのいい回答が見当たらないのだった。



「俺、こう見えて双子やねん」

 どう見えて、なのか分からないが、分からないなりに影山は驚きをもってその告白を聞いた。風呂から上がり手早く着替えを済ませた宮は、休憩所のドリンクを一気飲みして外へと向かった。いつもなら扇風機の風に当たってしばらくのんびりしてから帰る影山も、今日は宮を追いかけ、早々に駐輪場に出て来ていた。傾いた日ざしがまぶしく、自転車のチェーンキーを外す宮の背中を見つめながら、影山は目を細める。

「片割れ、治っていうんやけど、そいつが摺り師で、俺の彫った版を摺る。二人一組の共同作業やな」
「……すげえっす」
「フッフ、見てから言えや」
「なんか分かります」
「見たらもっとビビんで」

 チェーンを前かごに軽く投げ入れた宮は、両手をはたいて影山に向き直った。

「ほな、俺はこれで」
「うす」
「『うす』ちゃう。なんか言うことあるやろ」
「え、よ、よい旅を……?」
「何言うてるん君。手ぇ貸し」

 促されるまま右手を差し出す。自転車から手を放し影山の手を取った宮は、右の人さし指を立てて、影山の手のひらに這わせた。針の柄を握るせいで、ところどころ硬くなった皮膚の上を、同じく硬い宮の人さし指がなぞった。

「宮は、普通のお宮の宮な。アツムは、こう」
「わ、かんないです」
「こーお! 人偏に有る。有る無しの有る。分かった?」
「う、はい」
「ん。おりこうさん」
「えっと……え?」
「俺と連絡取りたなったら、それでググってみ。問い合わせ先書いとるから」

 な、と答えを求められると、こくんと頷いてしまう。怖いわけではないが、不思議な圧力があると思う。

「ただし、次の3つの場合だけな」
「? はい」
「1つ。俺の版で刺青彫りたくなったとき。あ、版元は俺やないからその辺は要相談な」
「はい」
「2つ。ここでまた一緒に風呂入りたくなったとき」
「そんなんでいいんすか」
「おん。風呂友やからな、フロトモ」
「てか遠いんじゃ」
「ええねんそれは。ここ、聞いたら天然なんやって? むっちゃよかったわ」
「うす。みっつめは」
「3つめは、あー、せやな。んー、まあ、エッチしたくなったときとかでええよ」
「……ハイ!?」
「ちょっと興味湧いたわ。そいじゃ、ほんまに俺はこれで」
「待っ、宮さん!」

 素早い決断に面食らい、影山はあとを追いかけようとしたが、宮の軽い身のこなしと急加速には敵わず呆然と後ろ姿を見送る羽目になる。
 何だったというのだ。
 全部幻だったんじゃないかと思った。それくらい、嘘くさいほど鮮烈だった。

「かーげやま」

 ふと背後からかけられた声に、振り返る。銭湯の玄関の、上り框の向こうで、ハーフパンツのポケットに両手を突っ込んだ赤葦がこちらを見ていた。どうやら、一部始終を目撃されていたらしい。

「『イケメンが集まる公衆浴場』の件、聞いてくれた?」
「あ……さーせん! 忘れてました」
「フフ。ま、冗談だけどね」

 サンダルをつっかけて表に出てきた赤葦は、生乾きの影山の髪にそっと手のひらを載せた。

「赤葦さん?」
「悪い男には気をつけて」
「あ、はい……宮さんのことですか」
「いいや、全般的に。まあでも特に、会ったその日にエッチに誘ってくる男はよくないね。それから、得体の知れない、謎の資金源のある男とかもお勧めしないけど」
「そっすね……。あの」

 建物の中へと戻っていく、日陰の背中を追って、影山は長年の疑問を口にした。

「この店、なんで潰れないんですか」

 振り返った赤葦は、ポケットに手を突っ込んだまま、肩を竦めて笑って見せた。「横流ししてるんだ」

「……え?」
「ネット通販に。知られざる秘湯の天然温泉水、20リットル税抜2500円より。案外いいお金になる」
「び……っくりさせないでください!」
「はは、ごめん。まあそういうわけだから、安心してまた来て」

 手を振り、カウンターの向こうへ戻っていく赤葦に頭を下げ、影山は家路に就いた。じりじり、熱気を帯びた日没前の夕陽が照りつけて、影山の額には再び小さな汗の粒が浮かんでいた。