intermission II

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原作軸未来(クロ影)

・大学生黒尾×影山
・女装あり



(1)

 電話口の男は穏やかに笑った。

「はは、まあ頑張って優勝しろよ」

 短くも濃密な付き合いの経験から、黒尾には分かる。年齢に似合わず大木のように落ち着いた振る舞いのこの男が、どんな目をしてその台詞を吐いたのか。

「……俺の後輩に恥かかせたら、ただじゃおかねえぞ」
「ウィッス!」

 黒尾は背筋を伸ばして男に頷き、電話を切った。
 一つの儀式を終えた。翌週に迫った学園祭のカラフルなビラを握り締め、黒尾は深く首肯する。黒尾の通う喜屋津(きやつ)大学の文化祭、通称ネコ祭。そこで行われる、部費を懸けた仁義なき戦いに向け、元お父さん、いや部長の澤村の許可をもって、黒尾の準備はようやく整った。

「勝とうな、必ず」

 イロイロなものよ、滞りなく流れろ。なんか上手い具合に。
 寮の壁に掛けた真紅の衣装を見上げ、黒尾は曖昧な決意に燃えた。



 かくして、月日は矢のように過ぎ、ネコ祭の当日が訪れた。それなりの強豪校のバレー部が、金・土・日と3日かけて行われるネコ祭に出ずっぱりになるわけにもいかず、黒尾たちは照準を最後の1日、「化け猫コンテスト」の催される日曜日に合わせていた。この不穏な名称の催しこそが、優勝した部やサークルに賞金として臨時の部費を支給する「神イベント」であり、黒尾たちバレー部の遠征バスの命運が託された最後の希望なのだった。来月に予定された他大学との合同練習、会場まで約2時間。大柄な選手だらけで、すし詰めはキツい。できればもう1台追加して、後輩たちも引き連れゆったりバス行を楽しみたい。それは部全体の総意であるのに、黒尾が呼びかけた化け猫コンテストへの参加に肯んじてくれる部員はいなかった。無理もない。気持ちは分かるけれど。

「黒尾さん、俺、ちゃんと着られてますか?」
「……ウン」
「なんかヘンですか?」
「ううん……」

 化け猫コンテストとは。男1名、そして女装した男1名でペアを組み、学園祭を練り歩いて、最もお似合いのカップルだと評価された組の所属部に、臨時ボーナスを支給するという、喜屋津大学の伝統あるイベントである。どこの誰が始めやがったか知らないが、伝統は伝統だ、なんとかこれまで続いてきたが、近年はSNSによる拡散という現実的すぎるリスクを背景に年々参加者が減少していた。この状況を憂え、執行部が大学外部からの応援を許可したのが昨年のこと。今年のバレー部の部費が足りくさいことが判明したのが先月、全部員に参加を断られたのが先々週。

「やべーわ。影山クン本当にヤバイ」
「やばいですか。やっぱ、俺じゃねーほうがよかったんじゃ」
「そっちのヤバいじゃなくて」

 近隣大学に通う2つ下の後輩、影山飛雄クンをだまくらかし――いや、説得して、参加を了承してもらったのが10日前。衣装合わせは今日、黒尾の目の前に傾国の美女が降臨したのが今、この瞬間だ。

「お前連れて優勝できなかったら、ネコ大バレー部の名折れだわ」
「はあ。大丈夫なんスかね、こんなんで……」

 影山が首を傾げ、束ねた黒髪がさらりと流れた。赤いアイラインを引いた優美な目元が、自称百戦錬磨の黒尾を蠱惑する。マジか。ここまでか。
 部員に断りに断られ、万策尽きた合同練習で、あいさつに訪れた影山に藁とすがった。その日体育館のフロアに座り込む黒尾の顔を心配そうにのぞき込んだ影山の顔が、黒尾の目にどれだけ美しく映ったことか。期待どおりと言えばそうだが、巫女衣装一つでまさかここまでの美女に化けるとは、もはや驚きを通り越して感謝しかない。
 黒尾は動揺を呑み込んで、袴の裾を払い、影山に手のひらを差し出した。

「離れんなよ。ナンパだけはされてくれるな。澤村に俺が殺される」

 はあ、それはないんじゃないですか、と首を傾げる影山の腰を抱き、黒尾は威勢よく控室から踏み出した。



「黒尾お前、彼女いたんだな……」

 茶道部の抹茶屋で軒先に敷かれた緋毛氈に腰掛けていると、早々に同級生につかまった。化け猫コンテストは、校門の受付で配られる投票用紙を、いいと思った組に直接手渡すことにより投票が成立する。夕方に体育館で開かれるイベントで開票集計を行うので、それまでの間になるべく構内で衆目を集め、用紙を手に入れなければならないのだ。
 目立ったほうがいいだろう、と敢えてオープンスペースを選んで腰を下ろしたのだが、遠巻きに見守られるばかりで、なかなか人が寄ってこない――と思ったら、これだ。

「女バレ? 超美人っすね」

 みたらし団子をくわえた影山が、バスケ部PGに向かってふるふる首を左右に振る。極力しゃべらないようにと言い含めてあったので、どうやら忠実にそれを守ってくれているらしい。いたいけさが増して逆にヤバいんじゃないのか。どうなんだ俺。

「おい、この腕章が見えねーのか。化けコン参加者だっつーの」
「え、ウッソだろ!? じゃあ男?」
「そーですう。他大学のバレー部からヘルプでな」
「冗談だろ! うっへぇ、すげぇ美女」
「触んなよ!」

 影山に手を伸ばしかけた男に鋭く言い放ち、黒尾は影山の肩を抱いた。身を強張らせた影山が、控えめに体重を預けてくる。影山クン、ちょっと照れてる。
 男に声をかけられるまで、まさかとは思っていたが、どうやら黒尾たちは一部の客からただのコスプレカップルと誤解されてしまっているらしい。黒尾が影山より長身でバランスが取れてしまっているのもあるし、黒尾がバレー部であることも浸透しているから、このPGのような「女バレかな?」という柔軟な解釈を頂いてしまっているもようだ。

「カワイイなー。いくつ?」
「19。マジアウトだから触んなよ。んで投票用紙寄越せ」
「ほいほい、やるやる。へー、でも化粧薄いよな。すっぴん見てぇなあ」
「言っとくけど、この子めちゃくちゃバレー上手いから。お前とかサーブで瞬殺だから」
「お、バレー褒められると嬉しいんだ」
「え?」

 皮膚のうすそうな、東北っ子のきれいな肌が、黒尾の肩口でほのかにピンク色に染まっていた。ぱちぱちとまばたきをするたび、長い睫毛の影が頬で揺れる。黒尾はごくりと唾を呑んだ。

「ハハハ、黒尾、アウトはお前じゃないすか!」
「何も言ってませんー!」
「言ってるだろ! 『やばい、目覚めそう!』って!」
「言ってないから、マジで! 違うからな、影山」
「あらぁ、黒尾さん、本当かしらぁそれ」
「ちょっと信じられないわよねえ、鼻の下びろびろなんですものぉ」

 聞き覚えのある声に、黒尾はびくりと動きを止めた。
 目の前のバスケ部の向こうに、人影が3つ見えている。既視感のある、ツンツンとふわふわとモジャモジャのシルエット。

「なんでここにいんのお前ら……」
「そりゃ、来るでしょ。『おたくの別嬪さん貸して』なぁんて言われたら。ねえ?」
「オホホ……」

 静かに怒る澤村、同じく菅原、そしておろおろと2人を宥める東峰のトリオが、喜屋津大におそろいでお出ましだった。

(2)

 まあまあ、そうね。言われてみればそうね。
 たこ焼き、おでん、じゃがバターと、絶賛食べ物につられ中で、自分の外見に頓着のなさそうな後輩を眺め、澤村は渋い笑顔をつくって黒尾にほほえみかけてくる。

「……おいし?」
「ウス! でも、ほんとにおごってらっていいんですか」
「いーのいーの、もともとそういう約束だったでしょ」
「あざっす!」

 目の前に座る烏野三人衆から自分の手に隠れるように目を逸らし、影山に向かって黒尾は目を細める。三羽烏に怒られるのが目に見えていたので、慌てて会話を解禁したが、声を抑えることにあまり意味はなかったのか、先ほどからおひねりよろしく投票用紙を持って近寄ってくる人足が絶えない。

「俺たちだって影山の顔くらいよおく知ってるよ。なあスガ」
「一年毎日見続けたかわいーい後輩の顔だもんな。なあ旭」
「えっ、は、はい」
「でもまさかさぁ……思わないよな、黒尾がさ……そんな目で影山のこと見てたなんてな……」
「オイ誤解招く言い方すんのやめなさいよ!」
「誤解じゃないだろ? 影山見てて女装させたら似合いそうだなあって思ったんだろ? よこしまじゃないの、十分」
「や、だから、それは……クソ、こうなりたくなかったからちゃんと事前連絡したのに……!」
「ハショりすぎなんだよ。ステージ上がってはい終わりかと思えば、一日中これなんだって? 危ないでしょ」
「ぐぬぬ……」

 あえてそのように受け取られるよう喋ったのだから、返す言葉もない。
ハーフアップにした髪に真っ赤なリボンを着けた姿で黙々とフードを口に運ぶ影山飛雄は、その旺盛すぎる食欲を加味しても、ただただ可愛らしいと思う。投票用紙を渡しに訪れる一般客が、「これ男でいいんだよな?」といぶかっているのが手に取るように分かるし、たぶん、黒尾にとってだけでなく、ちゃんと人心に訴える可愛さなのだろう。

「黒尾さん、大丈夫ですか」
「ん? んー……大丈夫」

 自分では確認できないが顔色が悪いに違いない、影山が心配そうな表情で黒尾の顔を覗き込んでくる。つい甘ったるい声を出してしまうのは、柳眉を傾ける影山が、この空間における唯一の味方だからなのか、普通に美人にデレてるだけなのか、もはや自分が分からない。ただただ睫毛の角度が魅惑的だ。

「菅原さんたちは、このあとどうするんですか?」
「ん? まあ、そうだなあ。俺たちも鬼じゃないから、まあ釘刺したら適当に見て帰んべ」
「イヤンもう刺したじゃない……」
「久しぶりに会ったのに、変なカッコですみません。また今度、ちゃんとどっかで」
「ん、そーだな。……影山ちょっとこっち来い」
「はい?」

 菅原は東峰を伴い立ち上がって、影山をはす向かいのテーブルに呼び寄せた。黒尾に隠すつもりがあるのかないのか、「悪い狼に気を付けるんだぞ」という台詞がばっちり聞こえている。

「……お前さ」
「ハイ」

 澤村と2人取り残された黒尾は、しゃきんと背を伸ばした。

「違うよな?」
「何がでしょう?」
「影山にドキッとしてるように見えたのは俺の気のせいだよな?」
「……俺だってここまで化けるとは思ってなかったんだよ。あの子素材よすぎでしょ」
「何言ってんだ、春高の王子様とまで言われた男だぞ。素材がいいのは当たり前だろ」
「そうですけども」

 分かっているのだけれども。
 コンテストにエントリーする際、今日のステージ用に化ける前の「ビフォー」の姿の写真を提出したが、黒尾が勝手にチョイスした写真も、月バリの春高特集ページからだった。影山はもともとアクのない整った顔立ちをしているが、試合中の集中モードの彼は、その顔面ポテンシャルを最大限発揮していて、男から見てもかっこいい。化粧映えするのだって、驚くようなことではないのだろう。

「そこじゃないんだよ。影山がどんな美女に化けたとしても、あくまで中身は『あの』バレー馬鹿の影山なんだから道を誤んなよって話をしてんのね?」
「分かってるよ……」
「超のつく体育会系なせいで、年上のお前の言うこと聞いてくれてるだけだからな?」
「分かってるっての! 澤村くんはお父さんですか」

 腕組みした澤村が、はあー、と深々息をついた。

「あいつ変な人気出たりしないよな……」

 斜め上を見上げる澤村にならい、黒尾もまた、まだ見ぬ未来へと思いを馳せる。

「出たらゴメンね……?」

 このSNS社会、ものすごくありえそうである。



 三羽烏と別れたあとも、黒尾と影山は安定したペースで投票用紙を受け取りながら、広い構内を歩きまわっていた。着慣れない巫女装束のせいか、はたまた出店のフードを食べすぎたせいか、午後に入って影山の元気が少しずつなくなってきているように見える。

「最初の控室……つか、うちの部室だけど。戻って休憩する?」

 下り階段の途中で足を止め、後ろをついてきていた影山を振り返ると、イケボの美女が自前の睫毛をぱちぱちとしばたかせた。

「え? 全然、まだいけます」
「無理すんなって。帯苦しいだろ?」
「いや、てか投票……」
「もう十分集まったと思うぜ、たぶん。すれ違うヤツ全員くれる勢いだし、ぶっちゃけ圧勝すんじゃねって思う」
「じゃあ、少しだけ、いいですか」
「おう」

 ごく自然に、手を差し伸べると、影山の手がためらいがちに重ねられた。

「あざっす」

 少しひんやりとした指先が、きゅっと黒尾の手を握る。
 なんと言えばいいか。顔はもちろんなのだが、全体的に、影山という少年が。

「……かわい」
「黒尾さん?」
「なんでもないよ」

 かぶりを振り、軽快に階段を下る。今日一日ですっかり裾捌きの上達した影山を連れ、黒尾はずんずん歩いて部室棟にたどり着いた。

「あ、黒尾先輩」
「うおっ、お前らなんでいんの!」

 バレー部のドアを開けると、小上がりの畳敷きスペースで、化けコン参加の黒尾の頼みを真顔で断った人情味のない後輩たちが5、6名、私服でくつろいでいた。手持ちの荷物を見るに、どうやら学祭も一通り見終えて、落ち着ける場所を求めてやって来たらしい。

「黒尾さん、袴似合うっすね!」
「落語家みてぇ」
「かっけえ」
「あのなあ」
「ってか! 後ろの美女誰っすか!!」
「え……マジ男の人ですか!?」
「……影山だよ。知ってんだろ」
「影山……セッターのですか!?」
「マジかよ、うわ、どうぞどうぞ! 汚いところですが!」
「ち、ちわっす」

 浮き足立つ後輩どもは、「あの」影山飛雄と目の前の和装美人とが結びつかないらしく、そろいもそろって狭い部室の中で右往左往している。

「高校の時からの知り合いだとは聞いてましたけど、ホントだったんですね」
「あの影山くんが……いやでも、顔はまんまか……」
「こ、こんちは……」
「ちわっす」
「これ、うちの部絶対優勝じゃないですか」

 勧められた座布団に腰を下ろした影山の顔を戸惑いと恥じらいたっぷりに覗き込む後輩たちに、頭が痛くなってくる。童貞か。

「黒尾先輩、おめでとうございます」
「何が!?」
「黒尾さんって、モテそうなのに彼女とかつくんないじゃないですか。心配してたんですよ。な!」
「そうですよ。よかったです。単に面食いだったんすね」
「違うからな!? わ、悪い影山――影山!?」

 後輩を制しながら隣を振り返ったその瞬間、くらりと巫女装束の体が傾いた。
 慌てて差し伸べた腕の中に、鍛え上げられた肉感のある体が倒れ込んでくる。

「さ、さーせん、めまいが……」
「帯か……!! おい、お前ら全員退出!」
「えー!?」
「えーじゃねえ! さっさと出なさい!」

 かばうように抱き締めた腕の中で、青白い顔の影山少年が、心許なげに黒尾にしがみついていた。

**

(3)

 自分で言うのも何であるが、黒尾鉄朗という男は女性に対し、まあまあ紳士である。重い荷物を持ってやるだとか、並んで歩くときは車道側に回るとかは当然のこととして、前髪を切ったことに目敏く気付いたり、飲み会の席で、彼氏持ちの女の子を秋波を送る男からそれとなく遠ざけたりが、そつなくできてしまうタイプの男である。であるからして、不謹慎極まりない現状は黒尾にとって、みずからの沽券に係わるものである。おかしいなあ、こんなはずではなかったのになあ、と思うにつけ意識が遠のいてしまう。

「ごめん影山、嫌じゃない……?」

 しどけなく袴の帯が解かれた白い頬の美女が胸元にもたれかかっている。ヤバい。後輩は追い出したものの、うっかり闖入してきた誰かに見られたら、一発で狼野郎の烙印を押されてしまう光景だ。実際のところは、着衣の乱れは帯くらいのものなのだが、黒尾の胸で湿った息をつく影山飛雄青年が今すぐ官能映画にスカウトされてしまいそうな壮絶な色気を放っているため、黒尾の顔まで下心に緩んで見えてしまうマジックが起こっている。そう、マジックです。これはマジックなのです澤村くん。
 影山は黒尾の腕の中で、安らいだ表情を見せている。いつの間に自分はこんな信頼を得たのやら、もしかして、高校時代からの謎の貯金で、黒尾は信頼できる先輩として認定されているのだろうか。なんなら、バレーの巧拙が基準という可能性すらあるから影山は怖い。

「いえ……俺のほうこそ、すみません。このまま少しもたれてていいですか」
「こんな胸でよければどうぞどうぞ、もう、一生貸しちゃう」
「あざっす……。……すげぇ鍛えてますね、やっぱ」
「ひぃいい」
「え?」
「いや、オホン、――まあな」

 突然の重低音はかなり不自然だったが、影山はスルーしてくれた。きれいな形の手が、黒尾の胸にそっと添えられている。ラブラブ新婚夫婦のような体勢だが、影山は今、自身のウェイトトレーニングのメニューに思いを馳せているに違いない。どうして神様はこのスーパーバレーマシーンな内面と超絶和風美人な顔を組み合わせてしまったのだろう。有り体に言ってグッジョブである。

「かーわいいなあ。とか言ったら引いちゃう?」

 胸元でもぞもぞと動いた影山が、目をぱちぱちしばたいた。ああ、分かってないな。分かってないけど、その角度は100点満点だ。

「ひかないですけど。こういうカッコの人好きなんですか?」
「ん? 巫女さんはオマケですよ。影山がすげーかわいいだけ」
「じゃあ……ちょっとよく分からないです」
「はは、だよなあ。でもやっぱ、すげーかわいいよ。俺の目に狂いはなかった」
「そんなことねえと思います」
「あるある。なぁんで顔はこんなキレッキレの美形なのに、中身はぽやんとしてるかねぇ。烏野の教育が間違ってんな、たぶん」
「あんま……黒尾さんの言ってること分かんないです」
「ま、だよな。けど、影山卒業したらV行くんだろ?」
「はあ、そのつもりですけど……」
「チームによっちゃ女装させられたりダンスさせられたり、いろいろあるからお兄さんは心配ですよ」
「そうなんですか?」
「あとは、そーだな、イベントで男とキスしたりとか……」
「……え?」

 これは言い訳だが、黒尾の胸に両手をついてほんの少し身を起こし、驚いた表情を見せる影山は、すこぶる可愛かったのである。少なくとも、くらくらっとよろめいて、黒尾の理性を押し倒す程度には。

「きす……」

 「き」「す」と動いた唇は、桜色だった。出店で食べ歩いて、口紅なんてとっくに剥げ落ちているから、それは、影山本来の唇の色なんだろう。ネットを挟んで向かい合っているときは、知らなかった。

「うん。ま、ちょっと触れる程度だけど」
「そう……なんですか」
「試してみる?」
「え?」
「ほら、こうやって」

 影山は、そこで黙り込んだ。黒尾が顔を近づけたから。肩を抱けば、簡単に鼻先が触れ合う。3ミリくらいの距離を残して動きを止めると、息を詰めた影山が、かすかに睫毛を震わせた。本当にはしない、フリだけだと、確かめるように心の中で繰り返す。こいつはみんなで大事大事に可愛がってきた、2つも年下の天才セッター、影山飛雄なのだからと。

「黒尾さん」
「ん……?」
「……俺、どう、したらいいですか……?」

 まぶたが、不安げに震えていた。主導権を黒尾に明け渡し、影山はなすがままに黒尾の腕に抱かれている。今なら何だってできてしまう。

「目、閉じてみ」

 わずかのあと、長い睫毛が頬をくすぐった。ぞくぞくっと背を何かが駆け抜けた。
 どうする?
 どうすんだ、俺!?



「いやあ、優勝おめでとう!」
「おめでとう黒尾くん!」
「う、うぇーい……」

 祭りのあとの体育館を包む静寂の中、乾いた拍手の音がこだまする。これ、映画のクライマックスのやつじゃん。黒幕の手のひらで踊らされてた主人公が「あなたはいい道化でしたよ」って衝撃のネタバラシされるときのそれじゃん。
 学園祭の最終盤、体育館で盛大に催された化け猫コンテストは、参加客から圧倒的な支持を受けた黒尾&影山ペアが見事優勝を収め、無事にバレー部に部費の支援が贈られることになった。こんにちは快適バス移動。さようなら俺の倫理観。
 各チームが化け猫コンテストを戦う中、黒尾は一人、キス我慢選手権を戦っていた。そしてふがいなく惨敗した。ふに、と唇がくっついて、影山の頬がふんわり色づくのを目の前にした黒尾は、我慢できずにそこから十数分、可愛すぎる後輩の唇をしつこく堪能したのだった。
 当然のことながら、同伴者(男)に手を出した化けコン参加者はほかにいない。黒尾の一人負けである。が、少々同情してほしい。黒尾の相方ほど、男の理性をブチ壊しにくる女装男子は、ほかにいなかったのだということに。
 その、同情から一番遠い澤村が、朗らかにほほえみかけてくる。隣に菅原がいて、反対隣では、東峰がぎこちなく笑みを浮かべている。

「影山は?」
「今ですか? 今は部室棟でメイクオフ中ですね」
「あ、そう。あのめんどくさそうな衣装ちゃんと脱げたのかな?」
「巫女さん衣装の着替えは手伝いましたので、大丈夫です」
「手伝ったの? へえ?」
「み、見てません。全然、顔伏せてたんで」
「いや黒尾それおかしくね? むしろ堂々見ろよ」
「ほんとはクッソガン見してました」
「見てんじゃねーよバカヤロー!」
「どっちだよめんどくせーなお父さんとお母さんは!!」

 しおらしさも限界を迎え、突如黒尾はいきり立った。
 どうしてこうなったのか分からない。しばらく影山とのいちゃいちゃを楽しんだあと、乱れた服装を整え、何食わぬ顔でステージに上がった、はずだったのだが。原因は不明だが、なぜかのぼせた様子の影山はステージ上で終始噎せ返るような色気を振りまき、壇上のライバルや審査員、そして観客たちのハートを奪っていった。まばたきひとつ、小さなお手振りひとつで、野太い歓声が面白いように上がった。
 夕刻ステージに姿を現した影山は、すでに完成されていたかに見えた今朝に比べてさえ、明らかに色香を増していた。それこそ、彼の(元)保護者の烏野OBたちが異変に気付いて、あとで黒尾をとっちめることを心に誓うほどに。

「お前とりあえず以後影山との接触禁止な」
「ハッ!? なんで!?」
「なんでもなにもないだろー。相手は影山だぞ! 何考えてんだマジで」
「影山だからでしょーが!」

 影山は、ファーストキスだったのだという。それを知った黒尾の胸には、「やべえ」「やっぱりか」「神よ」の、3つの感情が去来した。が、恥ずかしそうにそれを告白する影山、ステージに上がるとき、差し出した黒尾の手をきゅっと握り返す影山、女装用ウィッグを外したところで俄然かわいい影山等々を経て、もう結論は出ている。あの子がコートの中じゃ、百戦錬磨を自称する黒尾をして冷や汗をかかせるほどの威圧感を放つ「王様」だなんて、信じられない。ギャップの塊だ。一生そばで見守りたい、と思ってしまう。

「もしかして、ガチで惚れてるとかないよな?」
「ハッハッハ、まさかそれはないでしょ大地。ねえ? 旭もなにか言ってやれよ」
「えぇ……俺はいいよ……」
「だいじに……するから……」
「え? なんて?」

 かすれた黒尾の小さな声に、3人は耳に手を当て聞き返してきた。東峰以外の2人は絶対聞こえていたと思うのに。黒尾はヤケクソになり、両足を肩幅に開いた。

「大事にするから!! 影山くんを、俺にください!」

 部長業で鍛えた声量で、黒尾は高らかにそう叫んだ。

「黒尾……」
「黒尾さぁ……」
「黒尾クン……」
「黒尾さん……」

 ――ん?
 一人多いな。そう静かにモノローグし、振り返った黒尾の視線の先に、頬を真っ赤に染めた影山飛雄が立っていた。

「だいじに……?」

 うん。します。ああ、順番ぜんぶ間違えた。