intermission II

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半裸ベッド(千鹿影)

・千鹿影で全裸ベッドしようとしたら半裸になったブツです
・原作軸未来





 パニック状態の人間の思考回路は神秘に包まれている。
 現に今、千鹿谷の脳を覆っているのは「へえ、影山って意外と着痩せするんだな」という意識の転倒を物語る雑感で、現状の解明にも、解決にも、まったく寄与しないことが明白だった。すごい。細身に見えるのにな。真面目に頑張るの、お前のいいとこだよな。影山が目を覚ましたら上腕三頭筋の鍛え方、聞いてみてもいいかもしれないな。
 つうっと、首筋を冷や汗が伝う。なぜ俺と影山は裸なのだろうか。
 まっさらなシーツに負けないくらい、仰向けに横たわる影山の肌は白く、しっとりと艶めいていた。くせのない黒髪が映える。安らかすぎるこの寝顔を写真に収めれば、今すぐ睡眠の大切さを訴える看板広告が作れそうだ。「ねえ」と、肩を揺すると、鍛え上げられた厚みのある筋肉が千鹿谷の手のひらを押し返してきた。無理だ。千鹿谷栄吉はこの空間の緊張に耐えられない。

「ん……」

 細い眉が、ぴくんとゆがんだ。
 黒く、長い睫毛の生えそろう瞼が、わずかに皮膚を引き攣れさせながら持ち上がる。深い藍色の瞳がのぞいて、見つめる千鹿谷の喉の辺りから、ぞわぞわっと鳥肌が広がった。目を開けたらよけい、グラビアポスターだ。この角度でこのクオリティーは問題だ、問題作だ。

「起きて影山」

 枕元のナイトランプのつまみを全開にしながら、千鹿谷は声を震わせた。気だるげなしぐさで、目覚めたばかりの影山が周囲をうかがう。

「なんで……まだ夜中じゃねえの」
「3時だけど起きて! そして俺と一緒に寝てることに驚いて!!」
「……驚くわけねーだろ。お前がしつこいから、こうなったんだろ」

 億劫そうに、影山が裸の上半身を起こす。さらりと落ちかかった前髪を、影山はうつむいたまま白い手で掻き上げた。ファンの女の子が見たら、「抱いて!」と震え上がりそうなくらい、色っぽい目つきと指の動きだった。参考記録だが、千鹿谷からも震えが観測された。

「取って」
「何を?」
「お前に脱がされた俺のTシャツ」
「は、ハイ!? 脱がされた!?」
「なんだその反応。お前、半泣きで頼んできたじゃねーか」

 ――脱いで。脱いでよ影山! Tシャツ脱いでくれないなら、一生バス乗り場教えてやんないから!
 残響のように、自分の声が脳内でこだました。聞いたような気がするし、発したような気がする自分の声が、頭の中できりもみ状に渦巻いている。
 むっくりとベッドに起き上がった影山が溜め息交じりに肩をぐりぐりと回し始めるので、罪悪感が胸にどろりと広がった。
 サイドテーブルの向こうでは、本来千鹿谷が使うはずだったベッドが、ノリのきいたシーツにピンとくるまれ鎮座している。今回の合宿の宿舎は、体育館近くのごく普通のホテルだった。190超えの千鹿谷はなんなら一人のときでさえ、ベッドを斜めに使うダイアゴナルスタイルなのだ。こんな大男と二人で寝たんじゃ、そりゃあ狭かっただろう。

「俺、『一生バス乗り場教えてやんない』とか言った?」
「言った。あと、『マブダチだろ』とか『脱がないならテコでも寝ない』とかも言った」

 何言ってんだ俺は。普通はテコで寝るみたいに言うな。
 千鹿谷は上半身裸にトレパン一枚、影山はパンツ一丁という倫理に悖る格好で二人向き合っているうち、だんだんと記憶がよみがえってきた。

 男どうしのよくある猥談の類だ。猥談というか、下ネタというか。一般客ほか、影山含め低年次組のいないラウンジで、ユースの上級生の面々は「ユースの中で脱童貞が一番遅いのは誰か」というトークテーマで盛り上がっていた。千鹿谷はティーサーバーに真剣に取り組むことにより「俺は蚊帳の外ですよ」感を演出しようと試みたが、非童貞の悪鬼はやすやすと千鹿谷をその毒牙に捉え、「栄吉くんはまだやんなぁ」と口をきいたのである。俗説によると、関西弁のバレーボール選手はだいたい非童貞であるという。以下、回想。

「何か悪いですか!?」
「悪いとは言うてへんやん。ただ、栄吉くん遅そうやな思て」
「そんなの分からないじゃないですか! もっと青春を信じて!」
「千鹿谷ってお付き合いの手順丁寧に踏みそうだよな」
「手つなぐまでに1か月かかるタイプ」
「皆さんは俺の何を知ってるんですか!」

 多勢に無勢だ。手順を間違うよりずっといいし、そう話している先輩方の中に、童貞が一人もいないなんてことはないと思うのだが、千鹿谷の分は一貫して悪かった。

「星海さん、なんとか言ってくださいよ!」
「千鹿谷はだいたいなんでも遅そうだ。バレーの上達とか」
「星海さん別のところ抉らないで!」
「栄吉くん、ええよ、人肌って」
「そう、これはエッチな話じゃないんだよ栄吉」
「嘘つけ! 終始エッチなことしか考えてないでしょ!」
「肌と肌。ぬくもりとぬくもり。人間ってやっぱ動物だからさ、触れ合いなんだよ」
「もう、知りません! 俺部屋帰って寝ます!!」

 千鹿谷は少し、泣いていたと記憶する。
 顔を覆ってラウンジをあとにし、逃げるように自分の部屋へ駆け戻った。
 傷ついた心を抱え、オートロックのドアを押し開けた千鹿谷は、そこで、寝支度を整え洗面所から出てきた影山に遭遇した。

「うお、あぶね」
「影山ッ」
「なんだよ。こんな狭いとこで走るな」
「影山ーッ」
「聞けよ」

 両手を伸ばして抱きつこうとしたのを、鬱陶しそうに振り払われる。が、千鹿谷はめげない。邪険にされるだけだが、もはやどうでもよかった。ラウンジで繰り広げられていたような、俗っぽい会話とどこまでも縁遠い影山が胸に清々しかった。あの場にいたのが影山なら、「それとバレーって何か関係あるんですか?」と首をかしげて話を終わらせることができただろう。そういうヤツなのだ、この心の友――俺のマブダチは、そういうところがすごいのだ。
 長々しゃべったが、つまり要約すると、影山よ童貞であれ。

「影山は俺の味方に違いない!」
「夜中にうるせえヤツは嫌いだ。俺は寝る」
「嘘でしょ、早いだろ! 9時半だぞ!」
「十分おせえよ。朝6時に起きて走るんだし」
「待てよ! 待って、お願い! 影山は、寝るときはいつも一人だよな?」
「お前何言ってんだ? ここ2人部屋だろ?」
「じゃなくて……ッ、誰かと肌を寄せ合ったりしないよな!?」
「……何が聞きたいのか全然分かんねえよ」
「影山だけは置いていかないで!!」
「置いてくって……なに」

 影山がそこで、いったん剣呑な口ぶりを緩めた理由をこのとき千鹿谷は知らないし、もっと言うとあと3、4年くらいは知らないままいるのだが、本筋と関係がないので、いったん脇によけておくとする。
 千鹿谷は、自分のベッドに乗り上げた影山の両肩をはっしとつかんだ。影山の額でさらりと黒髪が流れ、身長差の分見上げてくる影山をあどけなく感じたのを、不思議と鮮明に覚えている。

「肌って……くっつけたらホントに気持ちがいいもんなのかな……」
「……はあ?」
「あのさ、影山……頼みがあるんだけどさ……」
「なんだよ」
「Tシャツ脱いでくれない……?」

 そして、話は冒頭に戻る。



「ごめん……」

 千鹿谷から受け取ったTシャツに淡々と袖を通し、影山は何事もなかったように再び寝支度を始めている。「お前も服着れば?」と促され、千鹿谷は大人しくそれに従った。
 どうして、影山は怒ったり、理由をただしてきたりしないのだろう。
 心の乱れを反映し台風一過の様相を呈している千鹿谷の頭髪に対し、布団をめくる影山の髪はつやつやと明かりを跳ね返している。自分では何もケアをしないくせに、ヘアメイクを施したみたいに端正な横顔に、千鹿谷の胸は、ちょっとだけキュンとする。やっぱり、影山はちょっとヤバくて、特別なやつで、自称マブダチの千鹿谷は、それがどうにも誇らしい。

「あのさ、影山……」

 いそいそと自分のベッドに向かいながら、千鹿谷は尋ねた。

「Tシャツ脱がせた以外、俺何もしてないよね……?」

 つるんとしたきれいな顔で、影山は千鹿谷を見つめ、「まあ」と頷き、布団にもぐった。

「よ、よかったぁ」
「お前もTシャツ脱いで、抱きついてきて、体べたべた触ってきた以外はな」
「へ……?」
「なんなんだよおまえ。変なことすんな、ばか」

 布団から顔を半分だけのぞかせ、影山は恥ずかしそうに目を伏せていた。

「ばか……」

 その瞬間、迂闊にも、千鹿谷は恋に落ちた。


 このときから数えて5年後、酒に酔った千鹿谷は今度こそ正しくやらかし、影山と裸でベッドインし朝を迎えることになる。前科を犯した際、特段叱られず、突き放されもしなかった影山の寛容ともとれる鈍感さに、5年間大いに振り回され、葛藤し迷走した末の出来事だった。