intermission II

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彫れ井戸16(国+影)

・国見+影山、及川さんも登場でやや及影っぽさあり。
・刺青を過去公開話と逆から見ている感じです


(16)

 はす向かいに腰を下ろした青年は、終始、落ち着かない様子だった。
 毎週木曜、夕方の不親切な時間に差し挟まれる休憩時間をいつもなら国見は駅裏の静かな喫茶店で過ごすが、この日はあいにくの臨時休業だった。しかたなしに表通りのコーヒーショップに入ってみれば、数分であれよあれよと席が埋まって、目の前には居心地悪そうな、目つきの悪い青年。個人スペースがどこまでだか分かりにくいテーブル配置のその店で、ぎりぎり相席でないような、しかし他人どうしで向き合うにはいくらか近すぎるような、そんな微妙な距離感で彼は現れ、自分のトレーを置いた。
 狭苦しいし、帰ろうか。常の国見なら、飲みかけの塩キャラメルラテを早々に諦め席を立っていたところだろう。だがそうしなかったのは、黒のVネックのシャツにジーパンを穿いた、多分、同世代くらいのその青年から、血の匂いがかすめたような気がしたからだった。
 不躾さも何も忘れて、国見は彼をまじまじ見つめた。切れ長の瞳の今風の顔をした男だったが、チェーンのコーヒーショップがちっとも似合わない。普段はもっと違う場所にいる人間なのだと思った。ここより、隣の烏野の町のほうが似合う。温かくて薄暗く、残酷で優しい町。烏たちの息づく町。国見はあそこが嫌いだ。

「なに」

 問いかけられて、半拍おいてからそれが青年の声だと気付いた。騒がしい店内なのに、その声は耳のすぐそばで囁かれたみたいにはっきり聞こえた。

「ごめん」
「あー、邪魔か?」
「いや、気にしないで」
「? おう」

 首を傾げながら彼は顔をそむける。青年のドリンクはブラックのアイスコーヒーだ。すき好んで飲んでいるというより、暇潰しに入店しただけなのだろうと思わせるチョイスだった。
 塩キャラメルラテと、アイスコーヒーの香り。それからやっぱり、爪の先ほどの鉄くささ。ついさっき、自分が施術を担当した女の泣き声が耳に蘇る。
 ――痛い。痛い。タトゥー消すのがこんなに痛いとか聞いてない。血まで出るとかありえなくない? 消すのが彫るより痛いなんて思わないでしょ、普通。
 後先考えずセンスの悪いトライバルを彫る女の普通なんて知らない。女を宥めるのを放棄して、「動かないでください」とだけ繰り返し、国見は無感動にレーザーの照射器を握っていた。あの鳳凰はおそらく完全には消えない。羽の部分の色が中途半端に残って、鳥未満の残骸に成り果てるだろう。レーザーでは種類によって消しにくい色というのがあり、羽根に使われていた緑はその一つだった。

「あんた、医者?」

 突然の問いかけに、国見は目を瞠った。先ほども聞いた声、黒髪の青年の声だ。顔を上げると海色の瞳が国見を映していて、気圧されるほど意志の強い目で国見に答えを求めてくる。

「あ、わるい」
「医者じゃないけど、なんで?」
「いや、その……」

 青年は目を泳がせ、ためらいがちな唇で「血の」と呟いた。

「血の匂いがした気がした。勘違いかも」

 絶句するしかない。まさか自分から? ふだん、仕事後に会った友達などからもそんな指摘を受けたことはない。自分は鼻が利くほうだと思っているし、その自分が感じない程度なのだから匂いなど移っていないのだと思っていた。青年はコーヒーを啜る。彼からの匂いかと思ったが、それも誤解か。

「勘違いか?」
「……いや、惜しいけど。看護師」
「ああ……」
「そっちは?」
「え」
「職業。学生じゃないだろ」
「……絵描き」
「もっとばれにくい嘘にしろよ」
「嘘じゃねえし……そんなに……」

 絵描きは絶対に嘘だ。絵なんか描けない顔してる。それに、「そんなに嘘じゃない」って、意味が分からない。名字を名乗って、向こうにも尋ねると、「影山」と答えが返ってきた。耳なじみのある名に、偶然だなと思う。

「待ち合わせ?」
「おう。何で分かんだ」
「こういう店慣れてないだろ。しかたなく入ったって感じ?」
「すげーな。そう。待ち合わせ」
「彼女?」
「違う。その……先生」
「先生? 学校の?」
「いや……なんつうか、師匠みてぇな」
「絵描きの?」
「そう」
「……ふうん」

 嘘をつくのが下手なら、つかなければいいのにと思った。どうしても隠さなければいけないことがあるなら最初から他人と関わらなければいい。社交的な人間にも見えないのに、どうして国見に話しかけてきたのか謎が深まる。よほど、血の匂いが気になったのだろうか。

「そんなに匂う?」
「いや。気のせいかもって思ったくらい」
「ふーん。まあ、外科っちゃ外科だしね」
「外科。」
「美容外科」
「へえ。美容外科って何すんだ」
「脱毛とか、ボトックスとか、二重形成とか……タトゥー除去とか」

 興味津々に向けられていた瞳が一瞬、僅かに揺れた。国見もつられて内心戸惑いはしたが、あちらはそれ以上掘り下げてこない。首を傾げつつ、勝手に言葉を継ぎ足す。

「バカだよなって思うよ」
「刺青?」
「うん。こんな小さいワンポイントで、消すのに30万円」
「……高ぇんだな」
「彫るのに2万もかかってないのに。小さくても2年はかかるし」
「刺青嫌いなのか」
「……好きとか嫌いとか、そういうもの?」
「確かに違ぇな」
「変な奴」

 影山の口調は淡々としているが、「タトゥー除去」という話題が彼の興味を引いたのは間違いないようだと国見は見当をつけた。「タトゥー」を「刺青」と言い換えたのもいくらか気になる。もしかして、擦れていない外見に似合わず、どこかに墨を入れているのだろうか。それもタトゥーではなく、刺青と呼びたくなるような彫り物を。
 ひじ辺りまで袖の捲られた青年の腕を見下ろしながら、国見はしかし、考えあぐねた。影山に似合う刺青がまるで思いつかなかったのである。

「刺青興味あるの」
「あー……、まあ」
「やめとけば」
「なんで……っと、あー」

 影山は言葉を呑み込む仕草をして、コーヒーのストローを甘く噛みながら「消すのが仕事ならそう思うもんなのか」と中空を見上げた。的外れではあるが、その遠慮には好感を覚える。

「そういうんじゃなくて」
「ちげーのかよ」
「どんな上手い彫り師でも、絶対彫り出せないものがあるだろ」
「あるか?」
「――『まっさらな背中』だけは無理じゃん。彫っちゃった肌は戻せない。今はいろいろ研究も進んで、消す技術も方法論も進化してるけど、完全に元に戻すことはまずできない」
「……そうか。……何の話だっけ」
「手つかずのきれいな背中以上に、影山に似合うモノ考えないといけないってことだろ」

 緑のストローで口元までコーヒーを吸い上げた影山が、それを啜ることなく口を離す。

「ナイっぽく言うな。それ考えるのも仕事だろ多分」

 ストローの中の液体のみなもが下がっていく。コーヒーの色と混ざってほとんど黒に染まっていたストローが、内側に点々と水滴を残しながらビリジアンへと戻っていった。
 緑が取り残される。筋彫りが消えて、かなめを失った羽根が散り残るのだ。

「俺は諦めてない」

 カフェのざわめきに一滴筆から垂らすように、ぽつりと青年は言った。
 タトゥーに憧れる若者たちの浮かされたような熱はそこにない。戒めに似た覚悟もない。自分の進む道に機会が現れることを信じて待つような、「選択」が示されているだけだ。

「でもやっぱ、国見だっけ、お前すげーな」
「え? 何が」

 氷の隙間からコーヒーをずるりと吸って、影山は真面目な顔で言った。

「なんか全部見透かされてるみてぇ」
「見透かす……?」
「飛雄!」

 トビオ。それが名前と気付く前に、影山ははっとして、店の入り口のガラス戸に顔を向けた。

「いた。もう、店入るならメールくらいしてよ」
「及川さんが見えたら出ようと思って」
「結構前からこの辺うろうろしてましたけど!?」

 背中に男の声が近づいてくる。いきなり身ぐるみ剥がされたような不安、興奮、焦り。国見は無意識のうちに顔を伏せていた。

「しゃべってたよね。友達?」

 無慈悲にもそんな声がかけられ、「及川さん」は影山のトレーを取り上げる。まさかと言いたい、でも、多分間違いない。

「つか、さっきまでもっと混んでたから、相席みたいになって」
「あ、そーなんだ。すみません、こいつ、もう……」

 男は国見の顔を覗き込み、言葉を止めた。

「え? 及川さん、知り合いですか?」

 不自然にやんだ及川の言葉を不審がってか、影山はきょろきょろと顔を動かし首を傾げる。――影山。そうだ。なら、「偶然だな」じゃない。

「……ううん。ちょっと知り合いに似てる気がしたけど、人違いだったみたい。もう行ける?」
「ウス。じゃあ国見、わりーななんか」
「ううん。じゃあね」

 青年は国見にそう言って立ち上がる。影山――いや、彼は稀代の天才彫り師、四代目「カゲヤマ」本人だ。血の匂いは勘違いなんかじゃなかった。やはり彼からも漂っていたのだ。

「飛雄が初対面の人と仲良くなるとか珍し」
「失礼じゃないですか? そうだけど」

 二人分の足音が遠ざかり、ドアベルを鳴らしながら店の外へと出て行ったのを確認してから、国見は肺の空気を全部吐き出すような溜め息をついた。まさか、こんなところで。

 「絵」とはつまり刺青のこと。絵描きの先生とは刺青の師匠ということだ。
 なぜなら、及川徹は彫り師だからだ。かつて国見の肩に八咫烏を彫った男、国見の抱える葛藤や迷い、孤独を見通しながら、国見の願いを無慈悲なまでに完璧に彫り物にし刻み込んだ男だった。
 目を合わせれば悟られる気がした。
 ――ほら、だから言ったでしょ? 国見ちゃんは絶対にこの刺青を消すって。
 ずっと昔の縫合傷が痛んだような錯覚で、国見は己の左肩を抱き締めた。
 「刺青嫌いなのか」。あの及川をも超えるという天才彫り師はあんなにも若く、あどけなく、その身体には一滴の墨も彫り込まれてはいない。手つかずのまま。誰にも触られないままで。
 ――どんな絵にするか決めるの手伝うし、頼まれればどんな刺青だって彫るからね。

「嘘じゃん」

 影山が刺青を期待しているのは及川だ。間違いなく。頼まれた。なのに、彫らなかったのだ。
 「刺青嫌いなのか」。

「大っ嫌いだよ」

 国見は苦々しく吐き出した。時計を見れば、もう休憩時間は終わりに近づいていた。病院に戻らなければいけない。そしてまた、タトゥーを消す仕事が待っている。肌を焼き、新たな傷を残しながら、その後悔が少しでも癒えるようにと。
 二度と会いたくない男だった。それでも及川が影山に刺青を彫らなかったことを国見は正しいと思い、感謝すら覚える。よかった、それで、よかったと思う。

(2016/2/14)