intermission II

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彫れ井戸14

・牛影(こころなしひy)
・更新順がひっくり返っていますが逆でもとりあえず平気です。


(14)

 頬から首筋、肩に、服越しの胸元。湿り気を帯びた何かが身体を這う感触が、影山の意識を手繰り寄せた。まだ眠りに逃げ込んでいたい正気が、警報を鳴らす五感に負けて影山の目を覚まさせ、心臓がたちまちよじれるように脈打った。

「誰っ、……何してんだアンタっ」

 寝室への侵入者の素性を不審に思ったのは一瞬で、己の喉元に落ちかかる髪の色合いを見て、影山はすぐに犯人の正体に思い至った。影山の顧客のうち、こうした暴挙をするに最もふさわしい、牛島若利という男がその答えだ。

「惜しい。いいところだった」
「最悪の間違いだろ」

 Tシャツの上に這わせていた唇を離し、牛島若利は身を起こす。ベッドの足先のほうに窓があるから、ちょうど牛島の姿が逆光になった。
 地毛だという牛島の不思議な髪色を、影山は鶯色に分類していた。鶯というと萌黄に近い色を想像しやすいが、本物の鶯の羽根は緑褐色、茶に近い色である。牛島の髪はそれが光の当たっている部分と陰になる部分でくっきりと違う明度を示していて、真新しい筆を初めて墨に浸したときの、半分染まった穂の腹のようだといつも思う。取り返しのつかないところが似ている。

「もう10時だぞ」
「昨日遅かったんです。どいて」

 やくざに起床時間をたしなめられるなんて違和感だらけだ。自分の太ももの辺りにまたがったままの牛島を動かすのを諦め、影山は自分の足を引き抜くことにした。裸足で寝室を後にする影山に、「誰に彫った」「何を彫った」と尋ねてくる牛島を無視する。牛島以外の客の話など絶対に教えたくないし、そもそも昨夜は別に仕事をしていたわけじゃない、日向と飲んでいただけだ。
 Tシャツを脱ぎ、洗濯機に放り込む。大して洗うものもないが、半分嫌味のつもりで洗剤を入れ、すすぎのボタンを押した。
 天気がいい。洗面台の横の小窓から射し込む光が、エアコンで冷えた体に心地いい。

「俺に勝手に触んなって言いましたよね」

 季節感を無視したいつものスーツ姿のまま、洗面所の入り口を塞ぐようにして中を覗き込む牛島に影山はとげついた口調で言う。裸の上半身を舐めるように見回されるのが嫌で、乾燥機から出したばかりのシャツと綿パンツを手に取った。

「お前が許可することがあるか?」
「ないですけど」
「だったら勝手に触るしかないだろう」
「どういう理屈だよ」
「お前が『理屈』だと?」
「馬鹿で悪かったですね」

 シャツをかぶりながら牛島の体をドアのように押しやり、今度はキッチンに向かう。昨日の残りが冷蔵庫にあるが、サラダくらいは作らないと気分が上がらない。

「お前が馬鹿だとは思っていないぞ」
「そりゃどうも」
「――ただ、これはやめてくれ」

 パクチーを金ざるにあけ、水を注いでいると、鍵をぶら下げた指が目の前に突き出された。この家の鍵だ。覆いかぶさるように背後に立つ牛島が、空いた左手を影山の指に絡め、頼む、とこめかみに口づけてくる。

「植木鉢の横にあった。不用心すぎる」
「それ使って寝室入ってきたくせに」
「俺はいい」
「全然よくねえよ」

 蛇口のハンドルを跳ね上げて水を止め、影山は牛島の腕の中、身をよじる。

「一回寝たくらいで調子乗んなよ」

 間近で視線がぶつかる。影山を見下ろす鶯色の瞳にはその瞬間、一滴の温かさもなくて、本音そのままの自分の言葉を後悔したくなるほどの冷徹さを帯びていた。
 牛島が、影山と目を合わせたまま右手の鍵をひねりぶすように拳を握った。鉱物じみた瞳が近づいてきて、「あ」と思ったときには唇を重ねられていた。

「なら、今から2回目をするか」

 驚き、拒絶を言葉にしようと口を開きかけたとき、カシャンと高い音が鳴った。牛島の手から鍵が落ちたらしい。いや、わざと落としたのか。

「い……やっ、牛島さん!」

 この男に力で敵わないことを忘れていたわけではない。ただ我慢が苦手なだけだ。
 腕を掴まれ引きずられ始めると、嫌な記憶がどんどんよみがえってきて、影山は平衡感覚を失うようなパニックに襲われた。

「離せっ、嫌だ! 絶対、や……」

 影山の頭と体を抱え込み、開けっ放しだった寝室のベッドへと投げ飛ばすように担ぎ入れられた。乱暴に腕を掴まれ、シーツに押しつけられて、さっき水道で濡らしていた手から、ぱたぱたと頬に水滴が飛んだ。
 かすかな震えを止められないまま男を見上げると、セットされていた前髪がはらはらと額に落ちかかって、目元を半分くらい隠していた。

「お前は俺のものだ」
「違う……!」
「なぜだ。この背中にはお前が命を懸けて彫った刺青がある。そして、お前の身体は俺しか知らない。初めてだった、そうだろう?」
「それは……そんなの、関係ない」
「ないわけがない。あんないやらしい格好を見られて、忘れられるお前じゃないからな」

 かっと頭に血が昇った。分かったようなことを言う牛島に苛立ちが湧き上がる。言っていることは、当たっているが、影山の意思を無視して抱いておいて、いったい何様のつもりだと思う。

「お前の彫る刺青が好きだ。愛している。永遠に見ていたい」

 頬の水滴を口先で吸い取られた。

「もっと俺が見えるところにも彫ってくれ」
「……らない」
「うん?」
「次、俺を抱こうとしたら絶対に彫らない」
「――本気か?」

 その問いかけは、影山の脅しが牛島を不安にさせたからでは決してない。余裕のある表情で見下ろされ、影山は歯噛みした。何をされても、彫らないなんて選択を影山がしないことを牛島は重々分かっているのだ。

「意味のない駆け引きはよせ」

 綿パンツのボタンに手を掛けられて、影山は牛島を睨み据えたまま手の甲に爪を立てた。

「猫か。痛い」
「筋彫りのほうが痛ぇよ」
「――難しいことは言っていない。危ない真似はやめて、身を守ってほしい」

 頼み事をするならせめて大人しくしていればいいものを、牛島は喋りながら平然と服を脱がそうとしてくる。その手を払いのけながら、影山はなんとかかんとか上半身を起こした。

「何かに怯えて暮らすなんて御免だ。この家に見られて困るものも盗られて困るものもねえよ」
「お前がいるだろう」
「だから何ですか」
「組での立場が上がった」

 低い声が、一層低くなった。

「誰の」
「俺のだ。敵が増えた。お前も危ない」
「……んでだよ」
「俺にとって一番大事なものがお前だからだ」
「ものじゃねえっての」
「お前を傷つけさせるわけにはいかない」
「俺に一番傷付けてんの、あんただからな」
「俺はいい」
「だから全然よくないって、聞いてんのか人の話」

 息が切れてきた。この男との会話は本当に疲れる。意思疎通できている気がしない。刺青を彫った分、牛島の生き方や孤独が少し、影山の心に流れ込んできた感覚はあるけれど。

「逃げないんだろう? 俺から」

 両手で頬を包まれる。「逃げないでくれ」と言われている気がした。

「ひかえ、腕九分」
「九分?」

 次の依頼だ。「ひかえ」は肩の辺りから胸にぐるりと彫る刺青のことで、次はそれと予想してはいたが、ひかえとセットで彫ることになる腕を手首のぎりぎり、九分まで彫るつもりは影山にはなかった。

「あんた、まさかですけど、なるべく長く彫らせようとしてないですか」
「ばれたか?」

 悪びれもせずに牛島が頬を撫でてくる。

「俺が七分と思えば七分だから」
「分かった。デザインには口出ししない。まあ、ほかにも彫るところはいくらでもあるしな」
「破産すんじゃねーの」
「残念だがそれは難しいな」

 ベッドの背に体を押しつけられ、にやりと笑みをこぼす牛島に口づけられる。今度は少し深く口の中を探られ、シャツをたくし上げてくる手を引っ掻く余裕がなかった。

「……っ、は」
「俺の上に乗って彫れよ、影山」
「う、わ」

 影山に自分の体を跨がせたかと思えば、肘の辺りを掴んだまま牛島は仰向けにベッドに倒れ込んだ。図らずも馬乗り状態になって、牛島を見下ろすと、まだ彫ってもいないのに満足げな顔をした牛島に見つめられていた。

「お前の顔を見ながら彫られるなんて最高だな」

 シーツの上に牛島の髪が散らばっていた。緩く微笑む牛島の顔に、夏の訪れを感じさせる日影が注いで、その一瞬だけ、鶯色の髪が白と七色に輝いて見え、息を呑む。

「どこにもやらない」

 記憶の淵から瞬間溢れて、消え去っていく波紋のようだった。
 腕を引かれ、再び組み敷かれると、すべてが嘘だったと信じるほうが簡単だった。

「2回目だ、影山」

 取り返しのつかない闇に沈んだ牛島がやっぱりそこにいて、影山ごと筆の根元まで、明けない夜に掻き消えるようだった。

(2016/1/11)