intermission II

【頂いたメッセージへのお返事⇒⇒23.8以降:「続きを読む」から、それ以前:スマホのリーダー表示かドラッグ反転でお読みください】

原作軸(クロ影)

・クロ影(よくない系モブ影あり)
・2018年4月くらい


 

 繁華街を抜けるタクシーの車窓のまばゆい景色を、その実、黒尾はろくろく見てはいなかった。隣に座らせた男の顔色をうかがい、血色がよすぎるのを不安に思う。

「平気?」
「あ、はい。大丈夫です」

 影山の受け答えは一貫して落ち着き払っていた。顔をまじまじと見つめてくる黒尾に影山は小さく首を傾げ、「黒尾さん?」と柔らかい声で口を利く。俺はきっと、何食わぬ顔を取り繕いそこねている。

「いつも、あんな感じ?」
「酒……は飲まずに済むほうがたぶん多いです」
「それもだけど、……あークソ、何て言やいい」

 ちらりと運転席を見やり、黒尾は言葉を濁した。
 今日黒尾が同席したのは、とあるスポンサー企業と選手との会食だった。ユニフォームにスポンサー表示をしている会社の中でも最大規模の協賛を受けている企業で、協会にもリーグにも顔が利き、長年こうして接待の機会を持ってきた相手だという。そのときどきで人気のある選手が出席してきた会だったそうだが、影山飛雄の代表選出以降、先方からの指名で影山が呼ばれ続けているのだと聞く。今年なんて、スケジュール調整が上手くいかず、影山は出られないものの複数の選手が参加できる日があり打診したそうなのだが、選手は影山だけでいいからと断られて、選手は影山だけになり、残りの1枠を埋める形で黒尾が参加することになった。

 こちらの布陣は営業部長と影山、それから黒尾。専務と顧問、マーケティング本部長とやらを出してきた先方とどうにも釣り合いが悪いように思うが、あちらとしては影山さえいればそれでイーブンになる計算らしかった。もちろん黒尾は違和感を持った。
 あちらの生態は、招かれたホテルの一室のようなレストランの個室に通されてすぐ知れた。楕円形の席に互い違いに座らされ、黒尾は影山の隣に陣取った専務とやらのはす向かいに腰を下ろした。影山は1杯だけと断りつつも酒に付き合い、プレーと顔を4対6くらいで褒めそやされ、嫌な顔一つせず、男が体に触れるのを見逃した。
 聞けば、今21歳の影山が初めて飲酒したのも昨年のこの会食の席だったという。都合3度目の臨席となる営業部長と影山は落ち着いたもので、黒尾ばかりが歯噛みし、怒りに呑まれて2時間を過ごした。事前にこちらの参加者の簡単なプロフィールを先方に伝えてあったので、影山と黒尾が旧知の仲であるのを男は知っていて、黒尾の反応を楽しむみたいに繰り返し影山の指に触れ、足を撫でた。

「嫌だったよな、体、触られんの……」
「んー……まあ、そうっすね。……黒尾さん、すげー顔」

 営業部長と別れ、影山をホテルまで送り届けるタクシーの中、黒尾は自分のため込んだ不快を押し隠せなくなっていた。
 会社員なんて、我慢の連続だと思っていた。満員電車に揺られる多忙で不健康な生活の中、体を動かすことが生業の男たちを羨ましく思うこともあった。だが、このフロントマンたちが負うハイリスクぶりは何だ。競技で結果を出すことを当然に課しながら、彼らに自分たちの夢想する行儀よさを要求するのはずいぶん都合がいい。接待なんて断ってしまえというのが黒尾の本音で、ましてセクハラ行為に耐えなければならない道理なんてどこにもない。
 だというのに、影山はぴくりとも表情を動かさずに「俺は大丈夫です」と呟いてみせる。

「でも黒尾さんヤバそうです」
「あんなん職権乱用だろ、タヌキジジイ。くそ、悪い、今更キレてどうすんだ俺」

 影山は今や、押しも押されもせぬ人気選手だ。19歳で出場したリオオリンピックでの活躍はあまりに鮮烈で、隙なく整った容貌も、鍛え上げられた体も影山の名が人口に膾炙するのを後押しした。スポーツニュースではひときわ大きく取り上げられるし、個人でのCM起用や女性誌への掲載も珍しくない。ファンだから、好きだからとおいそれと会える選手ではもはやなく、強権発動で会食の席に影山をつかせることができるのなんて、それこそあの会社くらいなのだ。
 ――この1年で、ますます美しくなりましたね、影山選手。浮世離れしてるというのかな。こうして間近に見つめていると、息ができなくなってしまいそうだ。
 小説の一節を引くように、男は恥ずかしげもなく賛辞を吐いた。

「黒尾さんが会食中にキレなくてよかったです。俺結構、そっちにビビってました」
「ウソ、まじ……」
「まじです」

 表情豊かではない影山が、会食中のそれと比べると、どことなく柔らかいまなざしで黒尾をその瞳に映している。気がする。
 ――美しいとかもしかして、言われ慣れてんのか、こいつ。睫毛の優美なカーブを眼前に、黒尾は背中にひやりと汗が流れるのを感じる。

「影山、俺やっぱもう、耐えらんねーかも」
「……でもあれ以上、何かされるわけじゃねーんで」
「分かんねーよ、タイミング待ってるだけかもしんねえだろ。――ああ、いや、お前を不安にさせたいわけじゃねえんだ。悪い……」

 なぜこれほどの憤りを感じるのか、影山がされたことを自分に置き換えて感じる以上の怒りを覚えているのを黒尾は自覚している。ならば原因は黒尾が影山に抱いている個人的な感情にある。
 年1回のことだからといって、影山を来年あの場所に行かせる気になれるかと言われると、心底ごめんだ。いつかの合宿中、あの汗ばむ体育館でフライングレシーブをこなしていた横顔がまなうらに浮かぶ。背丈がいくら伸びたとしても、成人して、一人の社会人として責任を負う立場になったとしても。こいつはあの影山でしかない、あの無垢な少年でしかないのにと胸が痛む。

「黒尾さん」
「はい」
「俺、今何か判断ミスってますか?」

 上背のある二人には手狭なタクシーの車内で、影山は黒尾に体を向ける。

「ん、いや、判断ミスっつうか、心配なだけなんだけども……」
「俺、ジョーシキないってよく言われます。黒尾さんがマズいって思ってること、教えてください。修正します」

 身を乗り出してくる影山に、黒尾はつい顎を引く。そういえば学生時代、影山が研磨を質問攻めにしているのを見たことがある。彼はきっと探究心が豊かで、自分に足りないものを他人からぐんぐん吸収しようとするタイプなのだろう。少し馬鹿で、素直で可愛い。
 そんな影山に、悪意の人間がよからぬことを教えてしまうかもしれないことを恐ろしく思う。それがマナーだ、常識だ、社会の理だと言われたら、自分を疑うクセのある影山には、それを撥ねつけることなどできないのではないか。

「影山は」
「はい」

 黒尾は影山の両手をすくって、左右それぞれの手のひらに、しなやかな指先を握った。影山は少しだけ首を傾げ、無抵抗に、黒尾の瞳を見つめ返してくる。淡い熱を帯びた体温を指先に感じながら、ネオンの明かりが影山の瞳の中で躍るさまを見る。

「たくさんの人に好かれてるし、自分が思ってる以上に……すげー可愛いから」
「かわいい……」
「あぁ、やべぇ……」

 黒尾は焦り、運転席に視線を送る。ドライバーは正面を向いたままだが、たぶん、聞こえていただろう。目的地のホテルも、あと数分の距離だった。

「黒尾さん」

 注意散漫になっているうちに、影山の顔が頬のすぐそばに迫っていて、黒尾は息を呑んだ。

「ここではしづらい話ですか?」

 気圧されるように、黒尾は頷いた。窓外の金色の明かりを映し込む影山の瞳が、ちらりと前方の景色を捉えた。

「一緒に下りてほしいです。話、聞きたいです」

 カッチ、カッチ、という、人工のウインカー音がやけに大きく聞こえた。
 黒尾にその意思があればたやすく唇が触れそうなほど、影山の唇が近くにあり、黒尾は目眩に襲われる。酒に酔っていたと思う。黒尾が後から言い訳を探したところによれば、である。

「俺の部屋、もう一人泊まれますし」

 タクシーは音もなくスピードを落とし、路肩に停車した。
 「無垢な少年」のはずの男が、無自覚に牙を剥く。時刻は午後9時半を回ったところ、終電を気にするには、いかにも夜は浅かった。




 何を改めるべきかと問われれば、自分の魅力への無自覚さであり、世の中にはいろいろな人間がいるのだという危機意識の欠缺であり、ガードの甘さであって、つまり影山が今晩黒尾に許したこと全般にほかならなかった。

「お前、なんで泊まっていいよって言ったの?」

 つま先を押しつぶしてくるブリーフケースが邪魔だった。
 足元に鞄を投げ捨てるみたいに手を伸ばして影山の腕を引いて、壁に押しやったから、鞄がバランスを保てず倒れてきたのだ。

「だめだろ、そういうの。悪い男につけ込まれちゃうでしょ」
「でも、黒尾さんなので……」
「外面だけいいヤツなんていくらでもいんだって。お前、俺のことだってそんなに知らねーと思うよ」
「知ってると思いますけど」

 影山は少しムッとした様子で唇を尖らせた。そこは怒るのか、恐らく影山ではなく、黒尾のために。酩酊しそうなほどに可愛いな、と黒尾は呆れ半分だった。

「ほんと? 俺、可愛い子に弱い普通の男なんだけど、知ってた?」

 両手の指を絡めて壁に押しつけると、影山は尖らせた唇を引っ込めながら、眉をハの字に曲げた。
 そのとき、ふと、触れ合った胸元から震えを感じて体を離す。

「影山、携帯鳴った?」
「……あ、はい」
「どーぞ」
「でも」
「チームからかも」
「……ウス」

 ニットカーディガンの下に着た白いシャツの胸ポケットから、影山がスマートフォンを取り出す。ホーム画面を確認した影山は、無表情の中に、一瞬困惑を浮かべた。

「見せて」
「黒尾さん」
「見ーせーろ」

 影山の腕の下から、壁に手を押し当てながら、黒尾は反対の手で影山の手首をつかんでスマホの画面をのぞき込んだ。画面の縦をいっぱいに埋める、長ったらしい白い吹き出しが目に飛び込んでくる。

「ライン教えてたの?」
「はい。2年前、最初に会ったときに」

 ビジネスマナーに則った、気色の悪い文章は今日の会食の礼文だった。長々と続いたあと、6月の大会が終わったらまたぜひ会いたいですね、という言葉で結ばれている。

「……やってらんないでしょ、こんなの。うわキモ。いつも返事してんの?」
「挨拶と、お礼くらいです。長い文章書けねーから」
「十分、偉すぎ。うわうわうわ。これこのままマスコミに流したらあいつ退任に追い込めそう。キッショ」

 影山の体づくりに対して繰り返される細やかな賞賛が救いようもなく気色が悪い。下心を持って影山を見ていることも、実際にその体に触れたことも丸分かりの文章だった。

「リークしよっか」
「できないです」
「……うん。そうだな」
「黒尾さん、その……そんな怒ってくれなくて、いいっす。俺、慣れてます」
「なあ、マジで言ってんの?」
「はい」

 陶器のような頬にまばたきで淡い影を作りながら、影山は黒尾の言葉を肯定する。
 慣れている。その言葉を裏付けるように、影山はきれいだった。

「……影山、俺さ、勉強してちょっといい大学入って、留学とかしてさ。やっとお前たちのバレー支える側に回れたって思ったのに、こんな奴にブチ切れる資格もねーのかって思うと、凹むわ」

 スマホと影山の右手を握ったまま、黒尾は影山の頭を撫で、抱き寄せた。

「それとも……それとも、俺がお前の彼氏なら、怒ってもいいわけ?」

 引き締まった体に腕を回すと、影山が腕の中で息を詰めた。

「かれし」
「うん」
「黒尾さ、苦しいです……」
「――悪い」

 気付かぬうちに影山の体はひどくこわばっていた。腕の力を緩めると、影山が深く息を吐いて、脱力した様子で額を黒尾の肩に預けてきた。乱れた前髪の隙間から、影山が濡れた色の瞳で黒尾を見上げる。
 ――浮世離れしてるというのかな。間近に見つめていると、息ができなくなってしまいそう。
 男の言葉が耳によみがえり、その言葉の意味を体験として理解している自分を嫌というほど自覚する。
 バレーが上手くて、自分に厳しい努力家で、責任感が強くて。どうしてそういう、無難な肯定の言葉だけにとどめておけないんだろう、俺は。

「断れよ」
「――黒尾さん」
「大会のあと、誘われても行くな」
「……いいんですか」
「うん。断れるようにしょーもねー予定ブチ込みまくってやる。10分のコメント丸一日かけて撮る日とか。俺とパンケーキ食う日とか。……って、それだと会食と同じか」
「全然、同じじゃないです」
「……そんな顔されると、俺の理性吹っ飛ぶから、ダメっすよ影山選手」

 影山が瞬きをするたび、せっかく張った理性を削り取られている気がする。横髪をすくって耳にかけてやると、影山は目を細め、ふるりと体を震わせた。

「俺やっぱり、黒尾さんの話、あんま分かってねー気がします」
「そっか。……じゃあ、説明しねーとな」
「はい……」
「今日ほんとに泊まっちゃおうかなぁ」
「いいっすよ」
「ダメなんすよねそれが……絶対ダメなんだけど、お前抱っこしてんの気持ちよすぎて帰りたくなくなってきちゃった。だいたい影山、抱っこに違和感なさすぎでしょ」
「――俺も、気持ちいいです」
「あーもうこれ無理、ハイ、無理」

 丸い頬を撫で、唇の先で小さく触れる。酒のせいで血色のよかった影山の顔が、また一段と赤く染まる。

「あのさ。お前にやらしいことしてくるヤツに怒る資格、くれね?」
「……それ、っん、」

 何か言いかけた影山を遮るように強引に唇を重ねると、影山は縋りつくように黒尾のスーツの背を引っ張って、眉根を寄せて目を閉じた。壁に背を預け、ずるずると体から力が抜けていく不慣れな様子に満足して、黒尾はうなじを撫で、きれいにくびれた腰を抱いた。

「影山、さっきの、俺をお前の彼氏にしてって意味だったんだけどさ。返事聞く前にチューしちゃった。怒ってる?」
「……う、……いえ」
「そっか。嫌じゃなかったってことでいい?」
「い、嫌では……なかったです」
「じゃあ今から俺が影山の彼氏な。『やっぱナシ』は聞き入れねえから諦めて」

 言葉に詰まり、目尻を真っ赤に染めて黒尾を見つめる影山に、もう一度キスをする。

「もう二度と今日みたいな目には遭わせない。どんな手使ってもお前のこと守るから、守られて」
「……黒尾さん、大丈夫ですか、それ」
「うん。任せて。俺、偉くなるからさ」
「……俺、は……バレー頑張ります」
「うん、ぶっちゃけそれが一番効く」

 そんじゃ一緒に風呂でも入るか、と肩を叩くと、影山は今さらながらに口づけられた口元を覆って「本気ですか」とささやいた。
 可愛い、尊い、愛おしい。日本全国から影山に注がれる愛の言葉に賛同しながら、黒尾はごく腹黒く、今後の算段を練る。
 ――守るよ、マジで。
 諦め交じりに服のボタンに手を掛ける影山を背後から抱き締めながら、黒尾は固く胸に誓うのだった。