intermission II

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原作軸(モブ影)

・モブ夢主(男)→→影山くんみたいな話です。
・2017年1月あたり。影山飛雄が地上にいるとこうなるという話

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 胸の奥が、あつぅーくなる。肋骨の内側全部が締めつけられたみたいにぎゅっと竦んで、追いかけるように、心臓がとくとく音を立て始める。朝8時45分、始業まであと少し。
 飲み慣れたコーヒーサーバーの薄味コーヒーも、今日は朝食代わりのドーナツの甘みを引き立てる、絶妙な味わいに思える。くせのないところがいいよね。邪魔しないの。あのコーヒーメーカーを選んだの総務部だっけ。総務、最近なんかいいよね。

「センパイ」

 これは幸せというものだろうか。でも、少し切ないし、苦しいのだ。なんだろうこの感じ、齢29の俺に訪れたこの胸騒ぎは、何と名付けるのが正解なのだろう。

「先輩ってば」
「え、なに?」
「顔キモいっす」
「はい?」
「顔。ニヤついてますよ、キモいっす」
「はぁー? お前、はあー?」

 通路を挟んだ斜め前の席に座る、2つ下の後輩・佐藤が、軽蔑を浮かべて俺を見ている。こいつは俺のことを少々、いやかなり馬鹿にしているきらいがあり、歯に衣着せず、思ったことを思ったとおりに言ってくる困った輩だ。

「ニヤついてないよ」
「いや隠せてないですって。なんなんすか。絶対なんかあったでしょ」
「別にぃ?」
「あ、そういえば先輩この前、営業の山田さんからバレーの招待券もらってましたよね。あれ昨日じゃなかったですか?」
「お、おう。はい」
「え、ニヤついた。なんなんですか。バレー見に行ったんですか?」
「行ったよ。せっかくもらったし、今チケット取りにくいっていうし、せっかくだから」
「ふーん。どうでした? 影山と、ウシワカですっけ? 代表選手がいるとこの試合だったんでしょ?」
「お前、選手呼び捨てにすんなよ!」
「はあー?」

 「バレー」で胸がきゅうんとなり、「影山」で完全に頭に血が上った。バカ。佐藤のおバカ。気安く呼ぶんじゃありません。俺はもう、「シリコンバレー」とかでも興奮できる体なのだ。

「チケットもらったとき、あんたも『へー影山ねー』って言ってたじゃないですか」
「マジそいつ? ちょっと過去行って殴ってくるわ」
「なんすかその変節。どういうこと? バレーよかったんですか?」
「よかったなんてもんじゃないよ。お前も絶対見に行ったほうがいいって、死ぬまでに。とんでねえもん見ちゃったよ俺」
「へー。遠慮しますけど。なんか、今男子結構強いんでしたっけ。影山って選手が若いのに上手くてヤバいって、前テレビで見ました」
「そう。その影山選手だよ。見てきたよ俺は。体育の授業でちょっとやったくらいの中途半端なバレー知識で、毛玉だらけのニット着てさ」
「ニットは別にいいじゃないですか」
「いやお前は知らんだろうけど、Vリーグには『お見送り』ってのがあんだよ。俺も昨日知ったけど。客が帰り際選手と接触できんの。俺は毛玉ニットで影山選手の列に並んださ」
「はあ、何並んでるんですか。影山のファンになったんですか?」
「なったよ」
「なんでちょっとキレてるんですか」

 確かに俺は半ギレだった。俺は俺が腹立たしいのだ。つい昨日、実際に会場で彼のプレーを見るまで、バレーボールに大した興味も持たず、選手たちのたゆまぬ研鑽に無関心でいた俺が。それこそ、俺だって「男子バレーは最近ちょっと強くなってるらしい」とか、「影山なにがしという選手がオリンピックで大活躍して、世界的にも注目を集めたらしい」とか、ネットニュースの見出しから得られる程度の情報には触れていた。でも、どうせミーハーな女の子たちがきゃーきゃー言ってるだけだろう、俺は興味ない、と理由もなく距離を置いてきた。スポーツにおいて、そうやって世間が取りざたすほどの結果を出すまでにどれだけ選手たちが努力を重ねてきたか、想像できないわけではなかったはずなのに。

「影山選手はセッターっていうポジションでさ」
「知ってますよ。トス上げる人でしょ」
「そう。そうなの。言ってみれば、目立たないポジションよ、スパイク打つわけじゃないし。でもさ、素人の俺が『え?』ってびっくりして、ほんと、スゴさが分かっちゃうくらい、マジで上手かったの」
「へー。たとえば、どういうことですか?」
「速攻って分かる? ビュン! ってやつ。間近で見るととんでもない速さなんだよあれ。それを、コートのはじっことか、遠距離で、すんごい体勢からシュパって上げるわけ。後ろとか全然見てないのに、打つ人の手の位置ドンピシャに飛んでくの。あ、この選手ヤバいってすぐわかった。空間認識能力みたいなのが凄いんだと思う。あとサーブとんでもないの打ってた。会場ずっとどよめいてた」
「へぇ、やっぱ代表選手って、頭抜けてるもんなんですね」
「たぶん。いや知らん。で、俺の席、アリーナの、コートの後ろっかわのとこでさ」
「中継で映るやつじゃないですか」
「そう、帰って確認したら俺VTVにクソ映ってたわ。いやそれはいいんだよ。とにかくすっげー近かったから、もうサーブのときとか、その辺まで来るわけ。あの影山飛雄選手が目の前に!」
「影山って、なんだっけ、イケメンなんでしたっけ?」
「いやもうお前、お前、イケメンなんて言葉じゃ収まらんわあれ。ボールこうやって地面につきながら、俺たちのほうに歩いてくんのよ。サーブ前の、ピリッピリに集中した影山選手が。俺も、俺の周りもみーんな息詰めてた。この集中途切れさせたら万死だと思ったね。そんで、その息止めて見上げる影山選手がもう」
「もう、何ですか」
「アートよ」
「アート」
「生きる芸術。この世のものとは思えなかった。影山選手と、影山選手の周りの空気だけ、キンって凍ってるみたいだった。前髪の貼りつき方とか、汗の滴り方ひとつまで、全部神様が仕組んだみたいに、狂ったみたいにきれいだった。俺、人生であれよりきれいなもん見たことないかも」
「先輩大丈夫っすか。むしろ三十路の男にそんなこと思われてる影山くんは大丈夫なんですか」
「分からんが俺は無害でありたい」
「握手並んだんでしょ、接触厨じゃないですか」
「並んだよ。握手か写真か選ぶシステムで、そうさ、俺は握手を選んだよ」
「ま、写真撮ろうにも毛玉のクソダサセーター着てますしね」
「そのとおりだよこの野郎。そんで人気選手だからさ、列がすごいわけ。エントランスから角曲がってこう来てこう、この辺まで列ができてた。そんで、少しずつ少しずつ列が進んで、だんだん影山選手が近くなってきて。もう、めちゃくちゃ背高いからさ。遠目に見て、台の上とかに乗ってんのかな? って思ってたら素よ。そして俺との身長差全部足」
「痛み入ります」
「じわじわ近づいてくる影山選手が、なんか白のジャージ、チームジャージかな? を着てたんだけど、すげーもう、神々しいの。試合中のぴりぴりした空気はなくなって、少しふわっとした雰囲気にはなってたんだけど、でも後光がさしてて眩しい眩しい。前の女の子が『がんばってください!』とかいいながら、こう、列からはけてさ。俺の番よ」

 俺は半日ほど前の出来事を思い返し、やはり、胸をずくんとやられる。
 チームスタッフに握手で、と宣言し、おずおずと前に進み出ると、影山くんは自分から「こんにちは」と声をかけてくれた。横の列などを見ていた感じ、そうチームに指導されているらしかった。
 顔を上げられずにいると、目の前に、するりと白い手が現れた。女性のものとは違う、でもそこらの男とも全く違う、大切に大切に鍛え上げられた美しい手が、俺に向かって差し出されていた。

「俺は震える手で、影山選手の手を握った」
「うわ、なんかキモくなってきた」
「触れた瞬間、ひやっとした。力は全然入ってないのに、しっかり手を包み込まれて、俺もう、急に泣けてきて」
「ほんとにキモいっすよ」
「何言おうかってすげー悩んで、ちゃんと準備して待ってたのに、全ッ部飛んでた。結果、口から出たのが『試合面白かったです』っていう謎のセリフで、言ったあと、恐る恐る顔上げたらさ」

 微笑みとは、少し違うと思う。けれど、俺の目に飛び込んできたのは、いくつも年下のうら若い青年が、この世の美をありったけかき集めたみたいな顔で柔らかく目を細める姿だった。

「『ありがとうございます』って言われて、そんで、すぐ終わった。5秒あったかな、あれ」
「まあそんなもんですよ」
「そのあとどうやって帰ったか記憶ない。気がついたら家の風呂で、俺は謎の叫び声を発していた」
「うわー、やばい人だ」
「朝起きたら、目が覚めた瞬間から、俺なんかわくわくしててさ。窓開けたら世界がもう、別物なんだよ昨日から。これから俺は影山くんのいる世界を生きていくんだっていう胸の高鳴りで、もう今、何でも頑張れる状態、チート入ってる。最高。俺、幸せ。今確信した、これは幸せだ」
「それで、そのニヤけ顔だったんですね……。キモい……」
「うるせえよ。見てこれ、待ち受け影山くん」
「うわ、なんスかその盗撮っぽい写真」
「知らんよ。かっこよすぎて構ってられんよ」
「結局バレーが上手いから好きなんですか? 顔ですか?」
「全部セットだよ、影山くんを勝手に2つに分けるな」
「反論の構文もキモいっす」
「うるさいうるさい」

 おえ、と口元を押さえる生意気な後輩をシッシと手で払い、スマホの画面に注意を戻す。目元にかかった前髪を指先で払う瞬間を捉えた、影山オタ女子撮影の神がかり的に美しい写真だ。確か昨日、朦朧とした意識の中、帰りのバスで収集し待ち受けに設定した気がする。先人たちありがとう。何度見てもいい。何度見てもいいが、気がつけば、始業時間が目前に迫っていた。
 パソコンを立ち上げている間にささっとショートカットからツイッターをのぞく。
 すると、シュヴァイデンアドラーズ公式アカウントのつぶやいた、「テレビ出演情報」と題されたツイートがトップツイートに上がっていた。
 本日、影山飛雄選手が○○局放送・ウィークリースポーツに出演いたします。寮での普段の様子なども密着取材していただきましたので、ぜひご覧ください。

「ああ……」

 頑張れます、俺、今日すげー頑張れます。ありがとう神様。影山くん。
 はす向かいの後輩が、再び「キモ!」と声を発するのが聞こえたが、そんなの、今の最高にハッピーな俺にとってはどうだっていいのである。