intermission II

【頂いたメッセージへのお返事⇒⇒23.8以降:「続きを読む」から、それ以前:スマホのリーダー表示かドラッグ反転でお読みください】

不倫未遂話(牛影)

・原作軸未来(牛影)牛島さんがモブ女と結婚する話(という設定で書ける限界)
・不倫失敗でした



 そのとき俺は、あまりにも無防備だった。
 牛島さんのゴツい手のそばで、ウイスキーにうねりを作りながら氷が解けだすのを、現実感もなく見つめた。心がよろめく。頭から落ちる。体は、まっすぐスツールに腰掛けたまま。

「……おめでとうございます」

 ――で、合ってるのか。「結婚することになった」。そう聞いたら、どう答えるのが適切なんだ? 頭の中は散らかりきっていたが、牛島さんが「ありがとう」と頷くので、たぶん、俺は正解を出したんだろう。
 俺が22だから、牛島さんは今24だ。早いんじゃないのか。そうでもねーのか。機能不全に陥る俺の隣で、牛島さんはバーのカウンターに頬杖をついたまま、ぴくりとも表情を動かさない。

「誰とですか」
「親が決めた相手だ。去年知ったが、同い年の許嫁がいたらしい」
「ケッコンって、そんな、感じなんですか」
「知らん。なにぶん初めてでな」
「はあ……」

 それから牛島さんは、ぽつぽつと実家の事情を言い足した。縁談はとんとん拍子に進んで、今は、「婚約中」ってことになるらしい。近々、チームを通じてメディア向けに発表する段取りまで整っているという。

「……どうした。驚いているように見える」
「びっくり、してるんで」
「そうか」
「牛島さんは、自分の結婚がそんな勝手に決まって、驚かなかったんですか」
「……まあ、少しは。だが、母はそういう人だし。バレーに口出しをされないだけいいと思っている」
「そうなんですね」
「お前も、俺と似たようなものだと思っていたが、違ったか?」
「――え?」

 榛色の瞳が、仄暗い間接照明のオレンジを映し込んで、ゆらゆらと俺を見つめている。
 牛島さんにこうして、「お前もどうせ、そうなのだろう」と、ぞんざいに同意を求められるのが好きだった。バレーへの取り組み方のこと、休日の過ごし方のこと、体の作り方のこと。何だって、俺と牛島さんは理由もなく似ていた。運命だとか、そんなのを笑いたくなるくらい、すべてはたまたまだけど、それがよかった。俺は牛島さんと同じように世界が見えていることに安心して、牛島さんもそうだといいと思っていた。

「似たようなものって、何がですか?」
「興味がないんじゃないかと思っていた。だから、結婚する流れになれば結婚するし、そうでないなら、しないし」
「流れってなんすか」
「流れは流れだ。結婚のいきさつを話すと、だいたいの人に『おかしい』と言われるから、お前に話したいと思って誘ったんだが」
「ああ、それで」

 牛島さんから飲みに誘われるのは珍しい。しかも二人きりなんて、たぶんこれが初めてだ。海外遠征の帰りに空港でいきなり声をかけてきたから、お互い、似合いもしない代表スーツを着たままだ。

「まあ、牛島さんっぽくはあります」
「お前っぽくはないか」
「俺は……結婚とか考えたことないんで」
「許嫁はいないか」
「そんなの普通いませんよ」
「そうか」

 俺は無防備だった。牛島さんが誰かのものになることに。この人と、法律とかいうものを使って、約束ができる誰かが現れることに。
 俺が感じていた居心地のよさや、牛島さんに感じていてほしいと期待した気の置けなさは、名前をつけて誰かに説明できるような、形あるものではなかったのだ。

「……どうした」

 不意に、牛島さんが指の背で俺の頬を撫でた。言葉もなく、目を見開く。

「疲れているか?」
「海外遠征の帰りとか、疲れてないほうがおかしいです」
「いや、今、結婚の話をしてからだ」
「――手、やめてください」
「手? どうして」
「だって結婚するんですよね。よくないです、こういうの」

 そういう意図はない、と呆れられると思った。けれど、牛島さんの大きな左の手は、俺の髪を少し払ったあと、ぴったりと頬に添えられた。

「影山?」
「なんでそうなるんですか――」
「逸らすな。俺の目を見ろ」
「……っ」
「言え。なぜ、お前はそんな顔をしているんだ。俺の結婚は、お前にとって、何か意味のあることか」

 怒っているのかと思ったが、見上げた牛島さんは、問いかける瞳で俺を見ているだけだった。知りたい。教えろ。ずるいほど真剣に俺を覗き込んでいる。

「――俺は」

 ごくりと唾を呑む。黙っていたほうがいいと分かっているのに、心がほろほろ崩れて、こぼれていく。

「牛島さんが好きだから」

 牛島さんが、まばたきを1回した。その一瞬さえ、次まぶたを上げたとき、どんな目で俺を見るのか不安にさせた。

「どうなりたかったわけでもねーけど……好きだって思うのもダメになるとか思ってなかった。気ぃ、抜いてました」
「影山」
「……もう、やめるんで……忘れてください」
「影山ッ」

 切羽詰まった声が上がるのと同時に、俺の体は牛島さんのほうへ傾いていた。スーツの胸元に、頬がうずまる。牛島さんの手が俺の後ろ頭を抱いていた。

「どうして言わなかった」
「どうして、って」
「知りたかった。なぜ黙っていたんだ」
「知ってどうするんですか。牛島さん、どのみち結婚すんのに」
「そんなの、どうとだってできた」
「だから、なんで! 俺の気持ち知ったところで、あんたが結婚をどうこうすんだよ」
「――俺は、鈍感なんだ、他人にも、自分の気持ちにも」
「なに言ってるんですか……」
「自分が何を望んでいたか、今やっと分かった……そんな泣きそうな顔をしないでくれ」

 グラスの氷が、テーブルでからんと音を立てた。「場所を変えよう」、そう、牛島さんに手を引かれる。



「もう遅いって言ってるだろ……ッ」

 そんな俺の言葉を無視して、空港のホテルの一室で、牛島さんは俺を抱き締める。突き放そうとするのに、耳に頬に唇を落とされてしまえば、立っているのがやっとの眩暈に襲われる。
 牛島さんと、名前も知らない女の人の結婚式の光景が、見てきたみたいに目に浮かぶ。浮気だ、これ。不倫だ。理性がそう喚くのに、牛島さんが俺を選ぶならいいじゃないかと囁く悪魔みたいな自分がいる。

「何も遅くなんてない。俺とお前が愛し合えばそれでいい」
「いいわけないです」
「なぜだ。結婚は取りやめる」
「だから、なんで取りやめるんですか。愛し合うって何ですか!?」
「俺はお前を愛している。自分の気持ちに気付けていなかったこと、謝罪する」

 全身が震えた。つい1時間前の地獄が嘘みたいだ、俺は、夢を見ているのかもしれない。

「牛島さん……」
「どうした」
「誰か、俺の知らないきれーな女の人のものになるんじゃないんですか」
「ならない、影山」
「キスとか、しましたか」
「……しない」

 目を細めた牛島さんに、唇を塞がれる。俺も牛島さんも、正しい手順なんて知らないまま、やみくもに舌を絡めて、ベッドに倒れ込む。

「今のが初めてだ。俺もお前も」
「あんただけですよ……」
「嘘が下手だな」
「……最低です。あんたも、俺も。人を不幸にするだけだ」
「それでも俺はもう、お前以外選ばない」

 ――「好きだ」。牛島さんの言葉に、俺の涙腺はきしきしと痛む。
 牛島さんの匂いが好きだ。声が好きだ。手のひらの温度が好きだ。

「お前との関係に責任を取らせてほしい」
「勝手なことばっか……」
「そうだな」
「ごめんなさい……」
「お前が謝る理由はない。気付けなくて、すまない」

 ちがう、そうじゃないのに。
 温かい腕の中で、目を閉じる。牛島さんの帰りを待つ見知らぬ女の人をの姿を想像する。
 ごめんなさい。どうか諦めて。
 俺はこの人の何一つ、あなたに譲ることはできない。