intermission II

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原作軸未来(菅影)

・モブ視点菅影
・スガさんサラリーマン注意




 同期入社の菅原孝支という男は物腰が柔らかく、誰にでも分け隔てなく優しくて、ユーモアを有し、男女を問わず人気のある人物だった。温厚なやつにときどきある、「ハンドルを握ると人格が変わる」というような性質もなく、営業での社用車の操作も至って安全運転で、俺は菅原とくだらない話をしながら外回りに出かけるのが好きだった。
 そんな菅原は、高校時代にバレーボールをやっていたらしい。副主将を務めていたそうで、協調性の高さも折り紙つきというわけだ。けれど、「大学に入ってやめちゃったから」とあまり詳しく話すことはなく、スポーツ用品を取り扱う今の会社でも主に野球用品を専門にしていて、もったいないなあとずっと思っていた。
 そういえば前に一度だけ、会社のテレビで一緒にバレーを見たことがあった。セッターの配球を暗に批判した解説について「そうなの?」と尋ねると、「いや、今のはそういう意図じゃない」と懇切丁寧に代表チームのセッターの組み立てを説明してくれて、どうやら「ちょっとかじっていただけ」というわけでもなさそうだった。それなのになぜか菅原はバレーから距離を取りたがるので、俺はやっぱり不思議だなと思う。

「あ、雨」

 ある日の外回りでのこと、営業先の高層ビルを出た俺と菅原は、目の前をほぼ真横に走っていく雨粒に呆然と足を止めた。「ゲリラだゲリラ」。圧倒的な雨量を前に菅原が感嘆ともつかない声を上げたので、俺はふと、街なかにいきなり現れてエレキギターをかき鳴らすバンドマンの姿を思い浮かべた。ジャジャーン、驚いただろう、とばかり雨をお見舞いされている気分になった。

「傘持ってる?」

 尋ねる菅原に、俺は首を左右に振った。

「ガン晴れつってたから、余裕こいて置いてきた」

 こんなロックな展開、全く想像していなかったのだ。「だよな、俺も。今日荷物多かったし」と、菅原が同調する。

「ってかこの雨じゃ傘無意味な気がする」
「確かに……」

 車は、ビルの近くのコインパーキングに停めてある。角を2つほど曲がった先で、豪雨に打たれながらヴィッツが主の帰りを待っているはずだ。少々嫌な距離ではあるが、全く無理だとつっぱねるような遠さでもない。愛車に辿り着けば活路は見える。ちらりと隣を見れば、菅原も俺と同じように心を決めた顔をしていた。

「菅原パイセン、覚悟決めるか……」
「だな。走れないこともないよな」
「行くか」
「うん、スーツはまあ、乾かしゃどうとでもなるだろ」

 俺たちはうなずき合ったあと、勢いよく歩道に飛び出した。あとになって思い返してみると、前向きなエネルギーが働いていたのは、この外に飛び出た瞬間だけだった。俺も菅原も、鞄を抱いたまま顔面に雨粒を喰らった瞬間には、すでに純度100%の後悔に包まれていて、後戻りのきかない絶望的な状況にみずからを追いこんでしまったことを悟った。無我の境地で路地を駆け、這う這うの体で辿り着いた車に滑り込んだ俺たちは、互いの顔を見合わせ、それからそっと逸らした。ヴィッツのシートが自分たちの体から滴る水滴でぐっしょり黒ずんでいく。あの思い切りは蛮勇以外の何物でもなかったようである。

「菅原……もしかして泳いできた?」
「お前は高飛び込み?」
「絶対車カビる」
「それより風邪ひくほうが問題だべ」
「こっから会社まで30分はかかるよな……」
「しかもこの蒸し暑さじゃ、エアコンつけないのも……」

 もはや気休め未満だが、おしぼりのように濡れたハンカチで惰性のように濡れた顔を拭い、頭を抱える。運転席の菅原も同様で、髪の毛を絞りながら、「あー」とか「どうしよう」とか声を上げている。けれど、そのせりふになんとなく、別の種類の迷いが交じっているように感じて「菅原?」と名前を呼ぶと、彼は腹をくくったような顔で、緩慢に俺へと向き直った。

「……あのさ。俺の家、ここから近いんだ」
「あ、そうだっけ? このへん?」
「ここから10分かからないくらい」
「まじか!」
「会社に連絡して、俺の家寄らね? タオルとか着替えとか貸せるし、エアコンガンガンの会社に戻るよりいいと思うし」
「めちゃめちゃありがたいよ。いいの?」
「うん。ただ、その……」
「あ、家散らかってるとか? 気にしないって」
「じゃなくてだな……。1つ、秘密を守ってもらわないといけなくなるんだけど……」

 俺の頭に浮かんだ大量の疑問符は、10分後、音速で氷解することになる。

**

「菅原さん? どうしたんですか?」

 俺を伴って自宅に辿り着いた菅原は、鍵を取り出すことなく、チャイムを鳴らした。すぐに同居人の存在に思い至り、「もしかして、会社の誰かと付き合ってる?」と疑ったのも束の間、ドアを押し開いて顔をのぞかせたのは、背が高く、すらりとした立ち姿の年若い青年だった。

「営業でそのへんまで来てたんだけど、急に降られちゃって」
「びしょびしょじゃねーすか。待って、タオル」

 青年はちらりと俺の姿を確認し、すぐに目礼をしたが、濡れ鼠の同居人をどうにかするのが先と考えたのか、駆け足で部屋の奥へと引っ込んだ。
 菅原は、何とも言えない表情で俺の目線を避けている。部屋の奥と菅原をせわしなく交互に見遣る俺の様子を感じて、今の青年の正体に俺が気付いたと悟ったのだろう、たぶん。

「ハイ、これ。鞄ください。会社の人ですか。タオル使ってください」

 俺に向かってバスタオルを突き出した謎の同居人――いや、「影山飛雄」こそが、菅原の言う「秘密」に違いなかった。


 影山青年は、テレビで言われる「バレー以外てんでだめ」「天然ボケ」のイメージとは裏腹にてきぱきと動き、賃貸マンションを濡らさないよう洗面所までラグマットの道を作って、タオルと着替えを届けてくれた。リビングに戻ればエアコンがドライモードに切り替えられていたほか、コンロではご丁寧にお湯が沸いていて、俺は10回くらい「ありがたい!」と繰り返した気がする。
 スウェットに着替えてソファーに腰を下ろすと、菅原が影山青年へ、簡単に俺の紹介をしてくれた。

「そんで、こっちが俺の後輩で、同居人の」
「影山飛雄です。菅原さんがお世話になってます」
「……いえ全然、俺がお世話になってるほうで、えっと……そのー……菅原?」

 向かいのソファーに座っているのは、見れば見るほど影山飛雄だった。本人が言っているのだから間違いない。ニュースでよく見るし、仕事でもよく見るし、最近はCMにも出て頻繁に目にしているから、顔を合わせたのはこれが初めてだというのに、はっきり記憶の中の人物と同定することができた。

「影山は、高校のときの2つ下の後輩なんだ。顔と名前は知ってるだろ?」
「当たり前だろ、うちの契約選手だし、じゃなくても知ってるし……」
「菅原さんって、高校のときの話あんましてないんですか? 一緒に春高も出ました」
「春高!? マジ!? 菅原、おま、すげーな!」
「もうずっと前の話だよ」
「いやすげーよ。で、仲がよくて、一緒に住んでるってこと?」
「まあ、そうだな」
「驚愕……信じられん……」

 仕事柄スポーツ選手に会う機会はそれなりにあるが、アスリートに実際に会ったとき受ける印象は大きく2パターンだ。「あ、なんだ、案外普通の人だな」か、「オーラやべえな同じ人間かよ」か。影山飛雄という選手は、間違いなく後者だった。顔は小作りで一瞬素通りしそうになるが、目が合うと言葉に詰まるような圧倒的な存在感に気圧される。写真で見るよりさらに整った印象を受けるし、コートの中のぴりぴりした表情とは違う、毒気の抜けた顔つきは年相応のあどけなさも感じさせ、隙があり、もし自分が女だったら一目ぼれしているんじゃないかとすら思った。

「な、なんで隠してたんだ?」
「だって影山、ファンも多いし……なんかややこしいことになりそうだろ? サインくれとか、絶対頼まれたくないし。仕事の便宜とかごめんだし」
「俺は別にいいんですけど」
「だーめだって。お前のバレーの邪魔は徹底排除します」
「溺愛じゃん……」

 菅原の、かつて見たことがないほど真剣な顔つきに俺は口元を覆った。多少ピリついている気もする。たぶん、会社の人間(俺)を影山と会わせることになってしまったのが不本意なのではないかと思う。
 いや、分かる。決して影山のファンだったわけではない俺にも、あの影山飛雄がゆるゆるのモールニットパーカーを着て寛いでいる姿はいい意味で衝撃的で、めったにメディアに出ることのないオフの影山は、きっと菅原の前だからこそ見られるものなのだと思う。バレーが上手いからキリっとして見えてカッコイイのだと思っていたが、元の顔のつくりがかなりイイことにも気が付いてしまった。キャラクターフィギュアのように丸い頭が、影山をどの角度からどう覗き込んでも、整った顔立ちに見せている。
 部の遠征帰りだという影山は、俺たちが家を訪れるまで掃除だの洗濯だのの家事に勤しんでいたらしい。二人暮らしの彼らは家事分担制らしいが、菅原の帰りが遅いと後輩だからか性格か、影山がさっさとやってくれてしまうらしく、菅原が適度に見切りをつけてさっさと家に帰る勤務スタイルである理由が垣間見えた。あれは、家で待つ可愛いカノジョのためではなかったのか。

「菅原ってさ……彼女いるもんだと思ってたよ」
「え?」
「は?」

 念のため註をつけると、「え?」が影山、「は?」が菅原だ。怖いほうが菅原だ。戸惑いを浮かべた影山は問いかけるような視線で菅原を見遣った。菅原は、「答えによっては覚悟しろ」と語る瞳で俺を見据えていた。キュイーンからのジャジャーンだ。眼前に、ゲリラ的に、恐怖王菅原が降臨していた。

「根拠は?」
「根拠? いや、ほら、モテそうだなって……、根拠って、そう、え?」
「モテないよ。俺、全然モテてないよ。気のせいだろ?」
「そ、そうなんだ? 菅原って優しいし、気配りとかもできて……ね?」

 俺はうっかりと影山氏に同意を求め、影山氏は素直に俺にうなずいた。ほら見ろ、これが世論だ。身近に心当たりの女子もいる。しかし。

「彼女なんかいないって。やめてくれよなぁ」

 「ハハッ」と菅原は笑い、そして、「彼女なんか」と掃き撫でるように低い声で繰り返した。

「うん……二度と言わないよ……」

 温厚な菅原にとっての「ハンドルを握る」的トリガーはこれだったのだ。心配そうに、不思議そうに、影山飛雄は俺と菅原をちらちら見ている。菅原のエレキは指向性で、彼には全く聞こえていない。

「そろそろ、スーツも多少乾いたかな。会社、戻ろうか」
「おう……」

 現場離脱できるならもはや何でもよかった。俺にも丁寧にあいさつをし、玄関まで見送りに来てくれた影山に送り出され、俺たちは蒸し暑いマンションの外へと踏み出した。先ほどまでの大雨が嘘のように太陽が元気いっぱい顔を出し、菅原もまた、曇りのない笑みで「さあ、今日もあとひと踏ん張りだな」と俺の肩を叩いたのだった。


**

 俺は秘密を守った。世紀末的な展開は避けたかったし、純粋に、他言するような内容でもないなと思ったからだ。

「菅原って、どういう子が好みなの?」

 昼休み終了間際の事務所で、俺の見立てによれば菅原に好意を抱いているに違いない同期の女の子が、さりげないふうを装って菅原に問いかける。ほら、モテてんじゃんか、と俺は思うが、菅原はその思考回路を一切通らず先へ進み、真摯にその質問への回答を切り出す。「そうだなあ」

「自分の選んだことを、一生懸命頑張ってる子のそばにいると、元気が出るかな」

 え、やだ。あたし仕事頑張る。――と、彼女がモノローグしたかどうかは定かでないが、まさか自分のライバルが、自分の背後にでかでかと貼られたポスターの中でかっこよくポーズを決める青年だとは思ってもみないことだろう。

「お、菅原午後休?」

 鞄を持って立ち上がる菅原に、隣の先輩が問いかける。

「はい。今日、誕生日なんで!」
「え!? うそ、おめでとう!」
「祝わせろよ、まじで?」
「気持ちだけもらっとく! お先!」

 爽やかに出て行った菅原の背中を見送りながら、「あいつ絶対彼女いるよな?」とため息がこぼれる。一帯に、敗北の空気が漂う。「まじか……」とやさぐれる同期は、スマホで画像検索をしながらどんより呟いた。

「私の支え、もう影山くんだけだわ……」

 そうか、人生はつらいな。俺はそっと目をそむけ、心の中で彼女に手を合わせたのだった。