intermission II

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彫れ井戸17

・及影メイン
・牛影に言及あり



(17)

 多くは若者に言えることだが、刺青は彫ったらそれで終わりではないのが盲点だ。消そうと思ってもそうそうきれいに消えないのに、彫りたてのころの鮮やかさは残念ながら年を経るにつれ失われていく。それでかえって味が出て、彫り物としての迫力を増す場合もあるが、当然そうでない場合もかなりある。
 三代目カゲヤマは、褪せた刺青を見てはよく「近いうちに色揚げしねーとなあ」とぼやいていたが、年齢が上がるごとに、そこに「自分があと何年生きているか分からないし」という含みが出てきて、及川は悲哀とは別のところで、由々しき問題だなあ、と思っていた。
 刺青に関して色揚げというと彫りの仕上げを指す場合も多く、メンテナンスの意味なら突き直しと呼ぶほうが一般的だろうが、三代目のそれはどうも毎回、メンテナンスの域を逸脱していた。彼の手にかかると、彫り物が自分の命を思い出し、高揚するかのように生をたぎらせる。鮮やかで真新しいのに、別の刺青になってしまわないのが何より秀逸なところだ。
 三代目が亡くなってから、四代目カゲヤマの存在を知っている客はもっぱら彼を頼るようになった。及川の知るかぎり――つい最近までは、ということになるが――天才・影山飛雄を最も疲弊させるのはこの先代の客を相手することだったと思う。及川も他人の彫った刺青の突き直しをたまにやるが、あれはあらゆる意味でしんどい。彫り物の意図も文脈もこちらの手帳には載っていないのだから当然だ。三代目の突き直しなんて、想像するだけでずしりと肩が重くなる。
 さて、及川がこの数年頭を悩ませていることがある。
 先代の彫った背中のマリアは筋彫りを主体とした意匠で、色鮮やかではないが細く精緻な点と線で構成されているものだ。これが、彫られてから10年が経とうとしている。劣化後の見え方も計算の上で彫り上げる先代の技術はさすがで、多少の鈍さはあれど今でも溜め息が出るほど美しい。そもそも並みの技術では突き直しなど不可能な代物だし、このまま一緒に年齢を重ねていくのも悪くないなと一度は思った。
 だが、影山ならあるいはとも思うのだ。もしかすると先代は、自分の引退後は影山に色揚げをさせるところまで考えていたのではないか。そして今の影山なら実際にそれが可能なのではないか。
 さんざん迷った挙げ句、及川は影山に色揚げの依頼をした。ここで頼れば一生頼ることになるぞとは思いつつ、結局これが天命のような気がしたのだ。


 約束の日、約束の時刻より少し早く、及川は影山の家を訪れた。錆びついた扉を押し開けると話し声が聞こえてきて、先客との遭遇につい顔を顰める。

「彫り師さん、なんか雰囲気違わねえ? 最近」

 部屋の奥にいる影山がちらりと及川を視界に捉えた。玄関からは、客の金髪の後ろ頭だけ見えている。

「終わりっす。お疲れさまでした」
「目元とか……なんつうか、きれいになったよな?」
「次、来週の水曜か木曜で」
「うへー、つれねえなあ」
「どっち」
「じゃあ水曜。なあ、もーちょい会話楽しもうぜ……」

 素っ気ない影山に絡む金髪男の言葉の途中で、及川は苛立ちをたっぷり込めて壁を2度ノックした。

「次。いい?」

 またこれだ。直前に別の客が入っているのは気に食わないなりにしかたがないとして、口説きの現場を見せられるのは不愉快限界突破というよりほかない。

「あ、うぃーっす」

 だぼだぼのカーゴパンツのポケットに両手を突っ込み、先客が作業ベッドを下りてガニ股でやって来る。擦れ違いざま、「カッタイよね、ね」と親指で背後を指していくのを無視し、及川は奥へと足を進めた。

「なにモテてんの。あんなチャラそうなガキ相手に……」

 戸口が閉まるのを確認してから吐き出せば、影山は表情ひとつ変えず及川をじっと見つめ、「俺何もしてませんけど」と予想どおりの台詞で応じた。そんなこと及川だって分かっている。ただ、アレの原因は間違いなく影山にあるのだ。金髪男の言うように、影山のまとう雰囲気にはこのところ顕著な変化があって、ちらりと目が合うだけで心の内側をのぞき込みたくなるような、誘惑気質の存在感が漂っている。
 及川の妄想上、とにかくタイミングが最悪だ。牛島若利に彫ってからではないのかと思う。彫ったからなのか、彫ったことで二人の関係に変化があったからなのか、考えだすと全くきりがないというのに邪推が止まらない。影山は芯が強く、自分が彫った刺青に揺るがされるような男ではない。だからこそ、何かよほどの出来事があったにちがいないと想像して苛つく。

「ウシワカのやつ終わったの?」
「牛島さんですか? ……及川さん、牛島さんのことほんと気にしますよね」
「終わった? 上手くいったの?」
「当然っす。……終わったかっていうと、終わったんすけど、でも終わらなかったです」
「どういう日本語だよ。まだ彫るってことね」
「はい。総身彫り覚悟してますよ、もう……」
「断ればいいんじゃないの」
「命日決定じゃないですか」
「ねえ、飛雄」

 手を伸ばし、黒のTシャツに綿パンツと、おもしろみのない格好の影山を捕まえる。

「俺の目ちゃんと見てごらん」
「なんですか……」
「見ろって。お前、大丈夫?」
「……何が。いつもと変わんねえっすよ」
「変わる。及川さんを誤魔化そうなんて百年早いんだよ。怒らないから何があったか言いな」
「何もあってないですって」
「言わないならキスする」
「な!? んすか、いや、ねえから、待って――」

 上半身をのけぞらせる影山を追って顔を近づけ、唇が重なり合う寸前で及川は動きを止めた。目の丸く見開かれた顔に血が昇っていき、眉根がぎゅっと寄るのを間近に見つめる。

「及川さんの馬鹿……」
「ま、するなら5年前にしてるよね」

 裸で抱き合ってさえしなかったことだという事実は、なかなか強力な枷で、互いの関係を清らかにしておけるのだという信心につながっていた。
 「そうじゃなくてもいられるし、その代わり終わりも来ない」。どのみち及川は色揚げのために影山を頼らざるを得ないのだ。影山との関係に後悔は少ないほうがいい。
 だが、距離を取ろうとした及川のシャツを、影山が掴んでうつむいた。

「及川さん、彫って」

 作業場に立ち尽くしたまま、影山が及川の肩に頭を沈めてくる。背に縋られ、反射のように抱き返した。

「……今日のお客は俺なんだけど?」
「彫って。もう俺余裕ないんです」
「俺に頼まないでよ」
「及川さん以外は嫌です」
「お前の世界は狭すぎるんだよ。探せば俺より上手い彫り師なんていくらでもいるんだよ」
「知りません。そんなの見たことねえ」
「だから、……飛雄。馬鹿だね。人の話聞いてないでしょ」

 ちょうど、二人の立つ場所から、及川の目線の先に三面鏡があった。姿見の中の影山の背を目に映し、肩を抱いたまま、そっとシャツの裾に指先をかける。

「及川さん」

 及川の手を影山は手で制し、うつむいたまま首を振った。

「見ないでください」
「彫ってほしいのに見るなって?」
「彫らねえなら見んな」
「言うようになったじゃん。……ウシワカに背中見せたの?」
「見せたわけじゃねえ」
「見られたの」

 裾をめくる代わりに、シャツの下に手のひらを滑らせた。若くしっとりとした肌が及川の手をためらいがちに押し返してくる。
 影山の肌は無言だ。火にかける前の白磁が永遠にその軟らかさを保つかのような、手つかずの静寂がある。彫れば呼吸が生まれ、交わり、影山は無辺の境地から地に降り立ってしまう。及川が彼に一生突き直され続けるのはいいが、逆はだめだ。
 牛島が影山の背を見たのなら2択だろう。
 踏み荒らしたいか、永遠に閉じ込めたいか。
 もし影山の背に刺青があれば牛島はどちらも選ばなかったはずだ。だが及川もおのれの人生にかけて彫るわけにはいかない。

「彫ったら多分抱くね」
「誰? 及川さんが?」
「そう。飛雄のこと抱けちゃうわ」
「いいですよ」
「あ、お前、抱かれれば彫ってもらえるって思ったでしょ」
「……思いました、けど」
「行間読み飛ばすんじゃないよ、全然違うから。あと抱かれるとか普通に許容しないで」

 物言いたげな夏夜の瞳が、行き場のなさを及川に伝えてくる。弱音にしたくないから、影山は話すことができない。だから彼という彫り師は孤独なのだ。
 両手で頬を包み、唇の代わりに額をかさねる。

「飛雄、あのね。因果が逆なんだよ。アイツは刺青がないからお前を選んだわけじゃない」
「それは知ってます」
「ううん、分かってないよ……」

 刺青がないから愛したのではない。おのれが愛したから、影山には刺青がないのだと、牛島はきっとそれくらいに思っている。

「ねえ早く彫ってよ」

 影山は無辺際を行く。手に入れたいと思えた男はある意味幸せだろう。影山は牛島のものにはけっしてならないのに、そうして溺れる彼は、やはり一人の客にすぎないのだ。

(2016.7.24)