intermission II

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彫れ井戸15

・更新順がひっくり返ってますが先に読んでも平気です。
・牛影。+5話登場の「ショウジ」という男が語り部です。

(15)

 青年は感心するほど頻繁に食材の買い出しへと出かける。1週間に2回か3回はスーパーへ行くし、ちょっとしたものなら自身の住むビルの1階に入っている個人商店まで下りて買っていく。23か4か、そのくらいの年だと言ったなと男は同輩との会話を思い出し、口元がほころぶのを感じた。つまるところ、ヤクザ者はそういうものに弱いのだろうか。家庭の匂いがする。得てして自分たちの人生に足りないそうしたものは、どう生きても厳然として足りず、あの完璧超人のような「ウシワカ」もそれは変わらなかったということかもしれない。
 膨らんだレジ袋を提げる背中を200、300メートルくらい追って歩いただろうか。スジ者なら間違いなく気付く距離だが、彼はまるで周囲を気にする様子がなかった。男は今日こそ青年と言葉を交わすつもりでいて、ばれてもいい、と思っていたのだが。

「君、そこの君」

 小さな児童公園のそばだった。平日の昼間だが、植え込み越しに見える敷地には人の気配がない。声をかけると不用意に、青年は振り返った。

「カゲヤマくん。四代目っち呼んだほうがいいんかね?」
「いや、慣れねぇから、要らねえけど……。何?」

 男――ショウジは、その返事に、膝を打って笑いたい気持ちになった。これはなるほど傑物だ。道端でヤクザと分かる男に突然呼び止められてこの反応。警戒不足というより、悠然として見えるのはその立ち姿の美しさのせいだろうか。
 すらりと背が高く、顔が小さくて見惚れる。一歩二歩と男が距離を詰めても、影山は小首を傾げるだけで逃げ出そうとはしなかった。

「何か用?」
「ワシな、ウシワカとビジネスライクなお付き合いしとるモンでな。まあ、同僚やね」

 青年は言葉を返さず、呼吸に合わせてゆったりと瞬きをした。牛島の名に際立った反応はなかったが、目を逸らさずいることが、彼なりの関心の表現だと解することもできるかもしれない。

「影山くん、影山飛雄くんやったっけ」
「だったら何?」
「君きれいな顔しとるなあ」

 影山は訝るような表情をして、「値引きならしねえけど」と素っ気なく呟いた。

「ハハッ、違うよ、おだててるんやなくて素直な感想」

 数メートルの距離まで近付くと、その輪郭や瞼の線の繊細さがいっそう際立った。公園から吹き抜ける風に前髪が乱れ、意思があるかのように絡まりほどける。

「刺青の腕も相当っち言いよったし、えらい美人やん。スジ者にはおらん顔やね、職人っぽいわ」
「どうでもいいだろそんなん……」
「女にもモテとるやろうけど、あぁ、気ぃつけり。君、男に好かれる見た目しとるよ」
「……用件あんなら早く言えよ。肉傷む」

 ずいぶんあんまりな言い草だ。男はますます青年を気に入ってしまう。いろいろな彫り師を見てきて、三代目カゲヤマにだって会ったことがあるが、こうも芯が強いのは珍しい。仕事柄気を張っているというのではなく、何に相対しても自分を変える必要がないと本能的に思い実行できるタイプなのだろう。
 なあ、と男は仕切り直す。

「ウシワカ、君に惚れとるんやろ?」

 形のいい眉がほんの少しだけ動いた。

「……知るかよ」

 青年はこの問いを否定しない。住宅街にぽつんと立っているだけで峙つ山を連想してしまうような近寄り難さと端々にひらめくあどけなさとが、彼を畏敬せよと主張する。
 やはり思い違いではなかった。「あいつは誰にでも彫る。誰に彫るかより、何を彫るかに遥かに関心があるようなヤツだ」、そう影山を語った牛島の目には確かに独占欲が宿り、影山には牛島を執着させるだけの危うさがあった。

「すまんなあ、ウチのモンが」
「だから。何がだよ」
「あいつ腕っぷし強いけんな。君も鍛えとるみたいやけど、敵わんやろね。こんな若いイケメンな男の子相手にひどいことするわ」
「何だよ、何でも知ってるみてぇに……」

 影山は歯噛みし、一瞬だけ目を泳がせた。決まりだ。もう牛島は手をつけている。

「ウシワカなぁ、最近昇進してな。外様やのに異例の出世スピードやけ、まあ、簡単に言うと敵が増えたんよ。あいつも賢いし、自分と敵対しても得がないよう立ち回っとるけど、みんながみんな賢いわけやなくてね。きちんと損得考えずに逸るアホがおんのよ、偉いヤツの中にも」

 影山は口を利かない。ヤクザ屋の事情に知らないふりをする彼の態度は基本的に正解だが、残念ながら、それは彼に大した価値がないとき限定の模範解答だ。

「君危ないよ」

 またひとつ強い風が吹いて、ひらりと白い額が覗く。

「アホはどうしたっちアホやけ。そういう奴らが君見て何考えるか想像つくわ。君、ほんとにきれいやから。腕もあるしな。ウシワカのイロや思われたら普通の男みたいには扱われんよ。どっちがマシか知らんけど」
「イロじゃねえよ」
「分かっとうよ。でも隠さないけんことあるやろ。君が男の慰みもんにされるんはもったいないわ。――悪いこと言わんから逃げり」

 鋭く、短く、なるべく警告らしく聞こえるよう気を配った。そうすれば影山も少しは心を動かすだろうと思ったのだが、しかし、予想は外れた。

「それ、牛島さんに殺されるだけだろ」

 男は目を瞠る。影山が木漏れ日に目を眇めた。諦めとも違う穏やかさが青年の瞳をよぎる。

「俺が逃げようとして牛島さんから逃げられるくらいの拘りなら、あの人は最初から俺に彫らせない。彫り物に食われんなら構やしねえけど、俺は牛島さんに殺されるつもりはねぇ」

 目が眩むような青が矜持の形を成す。知らず、踵が僅かに後ろへ退いた。

「あの刺青はちゃんと牛島さんの背中に『ついた』し、牛島さんはそれを認めた。俺が牛島さん本位に行動する理由はない。……よけーなお世話だ。用がそんだけなら帰る」
「ちょっと、影山くん」

 言うだけ言って、本当に背中を向けて歩きだす影山にショウジは追いすがろうとしたが、それも躊躇った。
 強情で危うい。予想はしていたが、それが想像を一回りも二回りもはみ出し、いっそ別の何かに見える。牛島をして手を焼かせているらしい影山の隔絶は、男に懸念をもたらし、濃縮する。

「大物やわ、でも」

 牛島に対し決して迎合するつもりがないらしい影山の振る舞いに嘘らしさはなくて、それでも一点、引っかかる。
 ――「あの人」となぜ呼ぶのか。
 己の客かもしれないと考えつつもざっくばらんだったショウジへの態度と牛島への態度は恐らく違う。タメ口も利いていないだろう。牛島は白鳥沢組の中ででも他人に礼を強いる力のある男で、無言の裡に人を威圧し、みずからが身を浸す黒ずんだ世界のルールを押しつけることができる。あれは牛島の才覚だ。
 恐らく影山も例外ではなかった。あの男に腕を掴まれて、かわしきれずに楔を首へと打ち込まれ、じりじりと侵されているのだ。少しずつ、抵抗の希望を残す緩やかさの中で。

「――君らが幸せになる未来は、ないよ」

 泥の水底に光は届かない、そう決まっている。

(2015/12/14)