intermission II

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彫れ井戸13

・彫れ井戸の春13話
・日影


(13)


 ここで一度セーブしておこう。
 寝室に先に足を踏み入れ、訝しげに首を傾げる影山を前に、日向はメニューボタンを必死に探していた。ダンジョンに突っ込む前にセーブ、これはもう当然かつ絶対のルールと言ってもいい。中に入ったら即死の可能性もあるし。武装、間違えて来ちゃってるかもしれないし。

「何やってんだ? テレビ見たいっつったのお前だろ?」
「お、おれですけども! まさかテレビが寝室にあるとは思わないじゃん!」

 不用意だった。そんな可能性なんてちっとも思い至らずに「おれテレビ見なきゃ」とか言った。バレー見たいとか言った。やってしまった。

「寝室にテレビあったら何かマズいかよ?」
「ま、まずいっていうか、おれそこ入っていい、の……?」
「遠慮するなら家入るときにしろよ。いつもずかずか乗り込んで来るくせに」
「うぐっ、それはそうなんだけども」
「で、どーすんだ」

 入るのか、帰るのか。一緒にバレーを見るのか、見ないのか。

「60インチ」
「お邪魔します」

 くそ。負けた。



 影山飛雄は、変態的な精度のトスを上げられる23歳男子にして、身長180センチ、あと料理が旨くてそこそこイケメンという、非常に気に食わないスペックを持つ近隣住民だ。
 日向にとって影山は、ごみ出し時間を守らないという一点ですでに悪の権化のようなもので、目つきは悪いし態度もかなりキツいのがその証拠だ。言葉をオブラートで包むということを知らないのもかなりいただけない。そんな剥き身の生きざまで社会生活が成り立つものなのかと常々疑問に思っていたが、神様はそんな影山にもちゃんと天職というものを用意していた。刺青の彫り師という、日向からはあまりにも遠く、それから果てしなくアーティスティックな世界で影山は生きていた。
 日向と影山の関係は、時折影山の部屋で一緒に食事をとるだけのひどく健康的なものだ。よって詳しく知っているわけではないが、どうやら、影山は自分の職業においても天才的な才能を持っているらしい。影山を訪ねる人足は絶えず、また自身の技術に関して影山が絶対の自信を持っているのも会話の端々からうかがえる。
 出会ってからこっち、会えば無視か喧嘩という悲惨な状況が3か月ほど続いて、それが少し前向きな方向に変わったのがひと月ほど前のことだ。疲れて、無防備で、他人の手を欲しがる影山をどうしても放っておけずに抱き締めてしまった。
 あれから友達と言えるほど親しくなれたわけではなくて、バレーの誘いはのらりくらりと躱されてばかりいる。でもチャイムを鳴らせば接客中でないかぎり影山は日向を家にあげるし、日向がおばさんから預かった食材を持ち込めば影山が夜ご飯に変えてくれる。顔を突き合わせて食事をしながらしょうもない世間話もする。そして、日向が帰るときには影山が必ず玄関まで見送りに来た。
 ――気になっていることがある。最近急に影山のことをたくさん知ったから違和感があるのかと思っていたけれど、影山はやっぱりこのところあまり元気がないようだ。体調も、あんまりよくないように見えた。

 日向が影山の寝室に入るのをためらったのにはそれなりの訳がある。
 影山は自分の家で彫り師の仕事をしているから、リビングやリビングと繋がった施術スペースは半分公共の空間みたいなものだ。キッチンや洗面所もその延長上にある。
 一方で、用がなければ誰も立ち入るはずのない彼の寝室はそのドアが玄関みたいなもので、日向が想像するよりずっとプライベートな空間なのではと疑った。
 うっかり招き入れられた寝室にはテレビとベッドしかなかったため、日向は今影山の隣で、影山のベッドに足を伸ばして寛ぐ展開に追い込まれている。追い込まれている、というのは要するに、緊張でどうにかなりそうだという意味で、バレーの内容は全然頭に入ってきていない。
 対してリラックスモードの影山は枕で少し角度をつけて、ほぼ寝ているような体勢で試合を見守っていた。

「お前ガッチガチすぎねぇ?」

 3セット目、2度目のテクニカルタイムアウトに入ったタイミングで声がかかった。例によって襟ぐりがゆるゆるのトレーナーを着た影山が鎖骨を大胆に露出しつつ日向を見上げてくる。

「なんで関節全部90度なんだよ」
「きっ、緊張すんだよ!」
「……なんで?」
「お前、……他人が自分のテリトリーに入るの嫌がりそうじゃん。寝室とか絶対他人入れないタイプだと思ってた」
「……まあ、そうかもな」
「やっぱりかよ!」
「お前のほかは、ひと……じゃねーや、2人しか入ったことねえ。んで1人は勝手に入った」
「うえっ、命知らず!」
「あのな。さっきからお前は俺を鬼かなんかかと思ってんのかよ?」
「思ってない、……ことも、ない」
「殴るぞオラ!」
「ひぃ! 説得力!」
「ったく」

 影山はじろっと日向を一瞥し、瞼を伏せて枕に頬を埋める。黒々とした睫毛が扇形に広がるのを、すごく神聖な光景のように感じて、日向は自分にびっくりする。

「別にいいよお前は」
「……へ?」
「ここいても何も思わねえ。……何だよ」

 目が合って、不満げに口を突き出した影山がもっさりと身を起こす。

「お、おれどんな顔してます……?」
「かなりキモチワルイことになってんぞ」
「ぅああああやっぱり……」

 グワァ、と音がしそうな勢いで熱が顔に込み上げてきて、日向はゆるむ頬を引き締めることができない。あんなさりげないひと言が、なぜこんなに表情筋をゆるゆるにするのだろう。
 背は高いし、大人びた感じはあるが、一緒にいる時間が長くなるにつれやっぱり同い年は同い年なのだと感じる機会が増えてきた。何の変哲もない大学生の自分が、偶然でもなければ道が交わることがなかっただろう影山と出会った意味を考えてしまう。
 日向を春のようだと言った影山に、ほんの少し日向に気を許してくれる影山に、与えてやれるものがあるとしたら、何だろう?

「お前俺見過ぎだろ。試合見ろよ」

 真正面からのガン見を指摘され、また顔に血が昇った。

「おおお前も見てねえじゃん」
「俺は見てる。次ブレイクしたら7回目な。セット取れるペースだ」
「ぬぐぅ! マジで見てる!」

 日向が顔を歪めると影山はにやりと頬を動かした。いたずらっぽくてちょっとだけ幼い表情に、日向はつい口を噤んだ。
 ふと視線を巡らせれば、投げ出された影山の長い足がある。ホットパンツの下から伸びた足は本当に嫌味なくらい長くて、程よく筋肉も付いてすらっとしている。自分の胸に手を当てて正直に言えば、すごくきれいだ。

「なに」

 そのきれいな足が急に日向に牙を剥いて、スウェットのふくらはぎを横から削られた。

「痛っテ!!」
「俺の足見てどうすんだよ」
「見てないっ」
「ああん?」

 足が折り畳まれ、内腿を晒しながら影山が距離を詰めてくる。表情は完全にメンチを切っているそれだが、生足と鎖骨が無駄になまめかしくて、あと肌がキレイだ。

「うぉおっ!?」

 足の間に手をつかれた。急所がやばい。潰される。

「ち、近いです影山さん……」
「何だそのリアクション。思春期かよ」
「ぬぁに!?」

 やれやれ、という仕草で影山は離れていき、テレビに目線を戻した。

「ほんとお前ガキくせぇ」
「お前に言われたくない! まじで!」
「お前嫌いじゃねーけどさ」
「くっそー! ……って、今なんつった?」
「二度と言わない」
「ちょ、何だよケチ山くんかよ!! もっかい……」

 びっくりして声が詰まった。
 ひんやりとしたものが、ぎゅっと手を握った。影山は目を逸らしたままで、でも、その繊細な手が日向の手をしっかりと握り込んでいた。

「俺はいいけど」
「……何が?」
「そういう目で、見てたよな今。……お前ならいいけど、俺は」
「……へ……?」
「にぶすぎんだろ。ガキかよ」
「だ、だって、おま」
「――意味分かるだろ。やるかって言ってんだよ」
「か、影山……!?」

 官能的な声が頭を沸騰させて、全身が強張った。影山の言葉の意味、それが分からないほど子どもじゃない。それから相手が影山だからこそ自分の心臓が激しく脈を打っているんだという自覚もちゃんとある。
 だけど影山の横顔はどこか疲れていて、傷ついているみたいで、都合よくその誘いに乗ってはいけないと日向の心が警鐘を鳴らしていた。心許ない飴細工のような表情はきれいだけど、乱暴に扱ったらきっとすぐに壊してしまう。影山の心を傷つけてしまうのは怖かった。きっと影山は人知れず、その傷を隠してしまうやつだから。

「影山」

 なるべく優しく響くよう、気をつけて発音した。
 インディゴブルーの海のような瞳が日向を見上げた。

「あんま、その……自分いじめんなよ」
「……は?」
「しねーよ。おれお前のこと、まだたくさん知りたいし」
「何言ってんだ」
「正直、ちょっとムラっとしたのは認めるけどな」
「認めんのかよ」
「でもおれは、まじでお前の心配ばっかしてんだ。最近すげー顔色悪かったから」
「ん……なこと、ねえよ」
「ある。目も、クマできてた」

 握られていないほうの手で、影山の頬に触った。ついこの間まで隈の残っていた目の下を親指で擦ると、影山は頬をピンク色にして悔しげに唇を噛んだ。

「なかなか治んねぇしさ……悩みとかないってお前、言ったけど、でも……」

 かっくりとうなだれた影山が、肩に頭を預けてきて、日向は口を噤んだ。代わりにその身体に手を回して抱き締める。

「変なんだよ」
「――何が?」
「ときどき、自分の体が自分じゃなくなったみてぇ」
「体調わるいってこと?」
「じゃなくて……。――いや、そうなのかもな……」

 日向が初めて影山と食事をした前の日、影山が「牛島さん」と呼ぶ人物が家を訪れていた。日向がホースの水をかけてしまった相手は、この蒸し暑さの中スーツ姿で、そのきっちりとした着こなしがどうにも他と違った。この町で時折見かける「違う人種の」男たちの一人だと直感した。
 人を捻じ伏せることに慣れきったような冷たい色の瞳をした男は影山の客で、彼らのやり取りは湿度を帯びていた。彫り師と客という枠からはみ出した関係に見えたし、それなのに翌日の影山の首には強く押さえつけられたような――首を絞められたかのような痕が残されていてぞっとした。
 あの男は、影山の首を絞めたのか。それなのにその後も繰り返し影山を訪れている様子で絶対におかしい。
 一度、階段のそばで偶然鉢合わせ、話しかけられた。
 「お前は影山とどういう関係だ」と男は言い、その声音と表情に影山への激しい執着を感じずにはいられなかった。それは、「彫り師」としての影山に向けられたものなのか、日常の彼のすべてを含めてのことなのか。いずれにせよ好意を抱いているはずの影山の首を絞める理由にはならないし、さっき日向を誘った口ぶりを考えると二人の関係はもっと踏み込んだものになってしまっているのではとつい疑う。
 それが、――それがもし、影山の意思を無視した行為だったとしたら。

「影山は影山のまんまだ」
「……え?」
「変わんねーよ。体調は心配だけど。お前はお前だから不安がんなよ」
「……分かったみてーなこと、言うなっつうんだよ」

 憎まれ口を叩く影山に頬をつつかれた。
 ずいぶん柔らかかったそれが影山の唇の感触だったのだと気付いた次の瞬間、今度は間違いなく平手が空を切って日向を襲った。

「ってぇ!! おれ何かしましたか!」
「知るかクソ待て今の忘れろ」
「ったく、殴るならちゅーすんなよな……」
「してねーっつの!」

 喚く影山の顔が赤くて、またどうしてか嬉しくなる。

「あ、試合終わったじゃねーかよ。とっとと帰れお前」
「えー!」

 こんな時間が幸せで、お前にとってもきっとそうだろうなんて言ったら、やっぱり「カンチガイだ」って怒られてしまうだろうか。

(2015/10/11)