intermission II

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彫れ井戸の春12

彫れ井戸の春12

「彫れ井戸の春」という彫り師シリーズ(1~11話をpixivで公開済み)の
・烏養さん+影山くん
のターンです。


 運び入れた商品の箱を検め、注文と相違ないことを確認して、影山は二度目の「あざっす」を言った。梅雨も半ば、前線が少し南下したとかで、じめじめ曇り下がっているものの雨はやんでいる。そうなると暑く、額の汗を拭いながら店兼居宅の彼の部屋を後にしようとした烏養を、影山はグラスを手にして引き止めた。

「急いでます?」
「……いや」
「じゃあ、少し、休んでいきませんか」

 夏場、影山の店を訪れるたび口にしてきたジャスミンティーの香りが鮮やかに体の中に湧き出して、烏養は思わず首を縦に振っていた。



 影山飛雄の最初の師匠である「三代目カゲヤマ」は、烏養の祖父だ。
 烏養の家に嫁いだ三代目の娘の兄、つまり繋心にとっては伯父にあたる人物がどこからか拾ってきたのが飛雄で、要するに飛雄は烏養とも三代目とも血縁関係がない。
 少しかじってはいたものの彫り師稼業に興味を抱けず継ぐことを断った烏養に代わって、飛雄がその名と技術を継承した。烏養はというと、表向きは親の営む小さな商店を手伝いながら、市場にはなかなか出回らない墨や針など、影山に必要な彫りの道具を見繕っては卸している。弘法筆を選ばず、なんて言うが、影山は天才的な彫りの才能の一方でかなり道具の好き嫌いがある。特に墨に関するあらゆるリクエストに応えるのは至難の業で、烏養の腕の見せ所だった。

「ここのところ、随分多くねえか?」

 リビングではなく作業場のほうで、涼やかな香りの液体を喉に流し込む。墨の瓶の入った箱を開封しながら、影山は「そうっすね」と軽く頷いた。よく冷えたジャスミンティーが体にしみわたっていく。瓶のラベルをたどる影山のうつむいた顔に前髪が影を作る様子はどうにも性別を無視したきれいさがあって、動揺する気持ちを誤魔化すみたいに烏養は頭をがりがり掻いた。

「なかなか期待したような色味にならなくて」
「ふうん……。それでお前はそんな疲れてんのか?」
「はあ、まあ」
「……おい、簡単に嘘つきやがって」

 指摘すれば、影山は決まり悪げな笑みを浮かべた。
 表情が豊かだとは言いかねる影山だが、付き合いの長さもあり、烏養には彼の感情の動きの端緒を掴めているという自負がある。このところの影山はどこか覇気がなく、刺青以外のことで何か悩んでいる風だった。とても珍しいことだ。影山は割り切りのいい方で、また彫り師というグレーゾーンな職種にあっても自分を持ち崩さない芯の強さがあった。客ときっちり距離を置いているし、悪く言えば鈍感で、あまり感情を動かさない。彫り師に向いているのはこういう男なんだろうなと思っていたくらいだ。

「珍しいこともあるもんだな」
「烏養さん、……気のせいですよ」
「おい、ちょっとこっち来い。顔見せてみろ」

 革張りの作業台に腰掛けたまま手招きすると、影山はしばらく躊躇ったあと、根負けし、そっと烏養の隣に腰を下ろした。

「貧血かよってな顔色だな。ちゃんと食ってんのか?」

 横顔を眺めて言えば、影山は床のあたりを見つめたままこくんと頷いた。

「最近なんかひな……下の階の奴が妙に構ってきて、うぜーんす。頼んでもねーのに飯の材料とか持ってくるし」
「……一緒に飯食ってんのか?」
「しつこいから」
「ふうん、レアだな、レア。名前なんつった? 嶋田マートのとこの?」
「間借りしてる大学生です。日向。」
「ひなた……ひなた……もしかして、オレンジの髪の、ちっこいやつ?」
「あ、そうです。知ってるんすか」
「時々下で見かけるし、あと体育館の近くでも見る。大学のバレーサークルかな」
「ああ、なるほど……」

 知人、というほどではないが、互いに顔は認識していると思う。この街には珍しく、裏のない底抜けの明るさを感じさせる青年だった。自覚はないだろうが、彼の名前を出した一瞬、影山の表情が和らいだ。
 人付き合いが苦手なはずの影山が躱しきれないのも、あの子なら分かるような気がする。

「そいつも心配してるんじゃねーのか?」

 どこか、纏う雰囲気の重い影山の、目のあたりの繊細な陰影を見つめ、烏養は言葉を継ぐ。

「俺を? さあ……別に、俺元気ですけどね」
「説得力」

 頬を指先でつまめば、ようやく影山が烏養を見る。

「無理すんなよ。じーさんに遠慮する必要ねえんだからな」
「何をですか?」
「お前が疲れちまったんなら、辞めたって誰にも文句なんか言えねえよ」

 それを聞いた影山は、少したじろぐほどの無表情で烏養を見た。
 瞳の色が、夜に一歩足をかけた窓の外の空とシンクロする。

「そんなの死にますよ」

 烏養の指を手の甲でそっと払いのける。影山は少しの衒いも滲ませず、凛とした声で言い切った。その目線が一瞬動き、胸のひかえから五分で見切った腕へと続く烏養の彫り物を辿ったことに、烏養は気付いてしまった。
 三代目が倒れたとき、影山は中学生だった。1年ほどの闘病生活があって、その間に影山は高校生になっていたが、消えかかる己の命を前にしても、三代目は「刺青を彫ってくれ」という影山の懇願を聞き入れようとはしなかった。尤も、最後のほうは手が震えて彫り物どころではなかっただろうが、いずれにせよあの祖父は影山に刺青を彫る気なんてさらさらなかったように思う。烏養の体にはあっさり彫ったし、身内に墨を入れない主義があったわけでもないから、影山にはもっと別の理由で彫らなかった――あるいは彫れなかったのだと、烏養は思っている。才覚の面では彼ほど三代目の技を正しく踏襲し、また昇華した者はいないにもかかわらずだ。

「……誰に彫った」

 影山はもう23歳で、社会的には立派な大人だ。けれど、烏養の頭には三代目を見送った15の影山のたとえようもないあどけなさが一瞬一瞬コマ送りに焼き付いていた。高校1年生の彼の喪失の表情が、今も。

「いつもと変わらないです。何も」
「言えねえのか」
「なんかふだんと感じ違いますよ、烏養さん」
「そりゃお前だ」

 誰なら、いったい誰なら、影山の心を暴き、動揺を引き出すことができたというのだろう。それでも影山は彫り師として踏みとどまるし、本当に大事なものは何一つ譲りはしないのだろうけれど。

「――そろそろ、客来ます」
「……悪かったな、長居した」
「いえ。俺が引き止めたし」

 烏養が立ち上がると、影山は玄関までついてきて、「またお願いします」と小さく頭を下げた。

「おう。……あとな、影山。下の、日向つったっけ?」
「はい」
「そいつとの時間、大事にしろよ」
「……え?」
「じゃあな、また来る」
「烏養さん……」

 理解が及ばない様子で首を傾ける影山に背を向け、烏養は部屋を出た。
 外階段を下りる途中、3階の踊り場で烏養は背の高いスーツの男と行き会った。この街の不文律に従うように目を逸らし、すれ違う他人をまじまじと見ることはしなかったが、その身のこなしと纏う空気から、男が堅気でないことを烏養の本能が嗅ぎ取る。
 男の足音は4階で止まり、チャイムを経ることなくドアの開く音がした。

「影山」

 名を呼ぶ男の色を孕んだ声に、烏養は思わず上階を見上げていた。


(2015/6/21)